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三年生編 第76話(5) [小説]

はあ……。

「付き合い始めて、僕はあいつを受け入れて来たように思っ
てたんだ。僕に倒れ込むのは、ヤバいよなあとか思いながら
さ」

「ああ」

「違う。あいつは自分を曲げたことがない。一貫してる。侵
食されてたのはむしろ僕の方だ」

そこも……僕が自分から目をそらしてたから出てきちゃった
誤解なんだよね。

「あいつが僕の色に染まっちゃうのはマズいって思ってたけ
ど、染まってるのは僕の方だったってこと」

「どうすんだ?」

「どうしようもないさ。僕はどこかで自分を作ることに取り
組まないと。進学は、そのきっかけにしようと思う」

「御園は納得するのか?」

「さあ。まだ分からない。話し合ってみないとね。でも」

「ああ」

「時間をかけて説得する。それすらも……」

僕はもう一度、タオルで顔の汗を拭った。

「僕を創るプロセスさ。そう考えることにするよ」

「めんどくせえな」

「まあね。でも、それをめんどくさいってサボってきちゃっ
たから、今のしょうもない僕になってる。重光さんにどやさ
れたのは、そこだ。この怠け者めってね」

「はっはー」

やれやれって顔で立水が拳を固め、それで僕の頭をごんとど
突いた。

「まあ、がんばれや。俺は辛気臭いのは嫌いだ」

「ははは。そうだろなー」

「だから、今がしんどくてしょうがねえんだよ」

ばりばり動いた結果がすぐに出るっていうのが、立水の理想
なんだろな。
そんなの無理だよ。受け入れるだけでも、突き放すだけでも
うまく行かない。はあ……ほんとにめんどくさい。

「まあ、どっかで突き抜けるだろ。馬力あんだから」

「それしかねえからな」

いろんなものにぶつかりぶつかりしながら進む立水。
効率は良くないけど、それが立水ってやつなんだろう。

でも、ぶつかって壊れてしまったら元も子もない。
立水は、ここに来てそれをきちんと意識したんだと思う。

同じように。
僕は身をかわすだけじゃなくて、もっと突っ込まないとだめ
だ。他人にじゃないよ。自分自身にさ。

立水が、横目でぎょろっと僕をにらんだ。

「おまえは、明日で終わりなんだろ?」

「そう」

「朝出て、そのまんま帰るのか?」

「いや、一度ここに戻る。お世話になった分、ちゃんと掃除
をしていきたい」

「わあた」

「おまえは、ずっとこっちにいんの?」

「いや、お盆は一度家に帰る」

「ああ、人の出入りがどうのって言ってたもんな」

「講習も、間が空くからよ」

「だな」

「おまえ、後半はどうすんだ?」

「自習さ。模試は組み込んであるけど、あとは自力でやるし
かない」

「ふうん……」

「カネがあれば後期の講習も受けたかったけどね。これが限
界だわ」

「は?」

「うちの家計だと、前期講習だけでぎりなんだよ」

「そうなのか?」

「妹の進学もあるし。経済的な制約はしょうがない」

「なるほど」

「だから、本番でギャンブルが出来ん。かちかちの鉄板にし
とかんと、しゃれにならん」

「……いいのか?」

「ははは。ガチのやる気は入ってから使う」

「!! そういうことか!」

「そ。それが答え。ここに来て固めたことさ。誰の誘導でも
ない。自分でそう決めた」

空になった麦茶のペットボトル。
その両端を握って、力任せにひねり潰した。
ばきばきばきっ!

もうヤバい。
いつまでも芯の入らない自分をずるずる引きずっていたら、
間違いなくどこかで潰れる。
その悲劇に、家族やしゃらを巻き込んでしまう。

覚悟しよう。
ぐだぐだ迷うこととはもう決別しよう。
自分自身の襟首をつかんで、ぎっちり言い聞かせる。

「なんじゃそりゃって言われるかも知れないけどさ。僕に
とっては大事な一歩なんだ。自分作りのね」




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今日の花:ノウゼンカズラCampsis grandiflora




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三年生編 第76話(4) [小説]

冷蔵庫からでかい麦茶のペットを出して、空になった自分の
ボトルに移し替える。
その水音に紛れ込ませるようにして、立水に話しかけた。

「なあ、立水」

「うん?」

「去年玉砕した先輩たち。夏期講習で潰れた人が多かったん
ちゃうかな」

「そうか?」

「ぽんいちのぬるま湯から出たことなかったら、競争のしん
どさなんか絶対に分からない。模試は一発勝負だし、問題し
か目に入らないから」

「ああ。確かにな」

「ぽんにや陵大付属と何が違うか。授業のカリキュラムに極
端な違いがあるわけじゃないんだ。競うっていう雰囲気があ
るかないかだけ。僕はそう思う」

立水がむくっと立ち上がる。
ものすごい形相だ。

「他のやつは僕の何倍も先に行ってるっていう焦りや、それ
に負けたくないっていう反発心。それはぬるま湯の中じゃ分
かんないんだ」

「ちっ!」

立水が悔しそうに舌打ちした。
そうなんだよ。立水一人がどんなにいきり立っても、それと
対張れるやつがいないと競争にならない。

僕にとっての武田くんや藤原さん。
負けたくないと思える、目標にしたいと思える、自分の真横
に並べられるライバル。
それが、ぽんいちの中じゃなかなか見つけられないんだよ。
僕だって、外に出て初めて強く意識したんだから。

「それでもね。夏期講習を受けたことで、自分にそういう意
識が生まれるのは悪いことじゃない。少なくとも、僕はそう
思う」

「ああ。同意」

「いい大学に行きたい、いいところに就職したい。それで、
他の人より自分を高いところに置きたい。そういう考え方が
間違ってるとは思わないけど。自分はそう考えたくない」

「ふうん。変わってんな」

「まあね。でも、それと現状で満足することとは別さ。きち
んと足を鍛えておかないと、結局どこにも行き着けない。そ
れだけだと思うな」

「そうか。おまえ、方針固めたのか?」

「固めた。もう動かさん」

「!!」

ぎょっとしたように立水が振り向いた。

「僕は、何を決めるにも時間がかかるんだよ。だから、具体
的な道を決めるのはずっと先にする」

「か、変わった……考え方だな」

「そうか?」

首にかけていたタオルで、汗まみれの顔を拭く。
ぶふう。

「それはモラトリアムとは違うよ。欲しいもののイメージは
固まったんだ。それをどう実現するかに時間をかける。それ
だけさ」

「欲しいものってのは、何だ?」

「自分だよ」

「は?」

「誰にも侵されない、最後まで崩さないで済む自分」

「……今はないのか?」

「ない。あるみたいに見えてたんなら、僕がそういうポーズ
を取ってたってこと。ここで……」

どん!
足を強く踏み鳴らす。

「それを見せつけられたんだ」

「じいさんにか?」

「すかすかの自分に、だよ」

ぎりっ! 歯を嚙み鳴らす。
今までどれだけ自分自身から目をそらしてきたのか。
それを重光さんにどやされて、とことん思い知らされて。
悔しいなんて生易しいもんじゃなかった。
自分自身を、ぼっこぼこにぶん殴ってやりたかった。

そう思いながらも、僕は自分自身を本気でどやしたことがな
かったんだ。
結局最後に引いて、安全地帯に軟着陸させてたんだ。

だから……ちっとも成長しない。

「もう受験戦争のど真ん中にいるっていうのに、まあだどう
しようかってふらふらしてる。それは自分がないからさ。好
きなこと、やりたいことが見つかんないんじゃない。そうす
るために絶対に必要な自分がない。すっかすか」

「ふうん」

「趣味がないのも、友達と全方位外交なのも、なんでも一通
りこなせてしまえるのも、みんなそう。入れ込める自分がな
いからこなせちゃうんだ。おまえと逆だよ」

「む!」

「不器用ってことは、それだけ自分に強いこだわりがあるっ
てこと。それは崩せない自我」

「俺には、えれえこだわってるように見えるけどな」

「まあね。何も自我がないってわけじゃないけど、そこがあ
まりにぶよぶよなんだよ」

「ぶよぶよ……か」

「そう。ソリッドじゃない。色も形も匂いも手触りもなにも
決まってない不定形。それが一部だけならいいけどさあ」

「ああ、そういうことか」

立水が納得顔で頷いた。

「そこが固まらないから、イメージを作ってもらえない。誤
解されやすい。それは……」

「ああ。これからきついってことだな」

「そうなの。中学まで、とことんいじめられ続けていた自
分。その間に、自分を小さく畳んでうまく合わせることを覚
えちゃった」

「未だに信じられねえんだが」

「いじめられ体質はしゃらも同じだよ。でも、しゃらと僕と
では大きな違いがある」

「どこだ?」

「あいつは、最後まで折れなかった。だからいじめられた。
孤立した」

「気は強そうだな」

「あいつは、見かけほど柔らかくないよ。自分を安易に崩さ
ない」

「ああ」

「だけど、僕の場合はしゃらと違う。自分を折り曲げ続け
て、空っぽになったんだ。それは、他人から見たらすっごい
気味悪いよ。わがままだからじゃない。気味が悪いから孤立
したんだ。そんな出来損ないの僕と、頑固で自分を曲げない
しゃらとはまるっきり違う」



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三年生編 第76話(3) [小説]

「うん」

でも。
重光さんは、僕の中身を『今すぐ創れ』とは言ってない。

ないなら、全力で創ろうとしろ。手を抜くな!
それだけ。

「あはは」

くそ暑い部屋の中。
僕のやる気は、再びじわじわっと湧き始めた。

高校が僕のゴールじゃない。
もちろん大学も、だ。

重光さんのように、何かを貫き通せる生き方を探そう。
それは、職業とかそういうのとは違う。
これが僕だと言える自分をこつこつ創ること。

時間をかけて。
ゆっくりとそれに取り組もう。

暑さで溶けるぐだぐだな僕がいて。
その溶けた肉塊が蒸発しても、たぶん今は何も残らない。
それは……すっごい悔しいよね。

「よしっ!」

洗いじわだらけのタオルでわしわしと顔の汗を拭い、机の上
にテキストとノートを広げる。

ここでの二週間は、無駄じゃなかった。
足りないものが見えて、どうすればいいのかの見通しが立っ
た。

一人はきつい。寂しい、しんどい。
そこはまるっきり予想通りだったけど。

一人にされて見えたもの、動いた心があるなら。
それが、初めて出来たオリジナルの僕なんだろう。


           −=*=−


心頭滅却すれば火もまた涼し。

いやいや、そんなことはないよ。
風が死んじゃった部屋の中は、これまで経験したことがない
猛烈な暑さだった。
あまりの暑さで、やかましく喚き続けていた蝉までおとなし
くなってる。

でも、汗を拭くタオルを三回替え、麦茶のでかいペットボト
ルを足元に置いて水分補給しながら、僕は炎暑の午後を黙々
と勉強に費やした。

変な話、条件が悪い方が気が散らない。
快適だと、逆にすぐ気が緩むような気がする。

明日の模試をクリアして家に帰ったあとは、ずっと自習。
今度は先生も、講師も、住職さんもいない。
自分をどやせるのが自分しかいなくなる。
気合いや決意がすぐに後戻りしやすい僕は、そこで悩みの無
限ループに入ってしまうとまた集中力が切れるだろう。

今みたいに、暑い暑いとそのことだけに全部の不都合を押し
付けられる方が集中出来るんだ。ははは。


           −=*=−


部屋の中にシャーペンの走る音だけを響かせ続けているうち
に、暑さのたがが少しだけ緩んだような感じがして、ふと顔
を上げた。

「おっと。夕方?」

机の上に置いておいた腕時計で、もう一度きちんと時間を確
認した。

「わ。もう五時回ってたのかー」

夕飯用のお弁当はもう買ってあるけど、どのタイミングで食
べるかだよなあ。

明日は、朝一からびっしり模試だ。
途中で燃料切れになるのは嫌だから、今日の晩飯、明日の朝
昼と繋ぎのおやつ。間隔を詰めて、びちびちに詰め込んで行
きたい。

それなら、夕飯は早めじゃなくて遅めの方がいいな。
もう一踏ん張りしてからにするか。
今はまだ水分補給だけにしておこう。

足元の空になったペットボトルを拾い上げて、冷蔵庫で冷や
してあった麦茶を継ぎ足しに行く。

「お? 終わったん?」

「ああ。きつかった……」

立水が、しんどそうに冷蔵庫の前にしゃがみ込んでいた。

「暑かったしなあ」

「まあな。それよか講義の進み方が、ぱねえ」

「堪えどころだろ」




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三年生編 第76話(2) [小説]

熱風が吹き抜ける講堂。
そのど真ん中に向かい合って座る。もちろん正座だ。

結局、重光さんは最初から最後まで僕に笑顔を向けることは
なかった。
そして、僕がそれを奇妙だと思うことはなくなった。

「最後の最後まで死ぬ気でやれ。ここでいいと手を抜くな!」

「はい」

「俺は誰にでもそれしか言わん。あとはてめえで考えろ」

「……はい」

正座を崩してあぐらをかいた重光さんが、僕から視線を外し
て墓地に目をやった。

「おまえと立水で、終いだ。この夏限りでここを閉める」

「えっ!?」

「トシがトシだからな」

そうか……。
それで、どやされた時に『最後』って言ってたんだ。

「これからどうするんですか?」

「坊主止めても、ここらへんにはけたくそ悪いじじいばああ
どもがごしゃごしゃいるんだよ。退屈しねえ」

あ……そうか。
おばあさんたちに、クソ坊主呼ばわりされてたもんなあ。

「俺は、やり切った。あの世にまで持ち越すものは何もねえ
よ。あたあ墓に入るだけだ」

ぐん!
勢いよく立ち上がった重光さんは、背中越しに伝言をぽいっ
と投げつけていった。

「斉藤に、そう言っとけ!」

「はい!」


           −=*=−


一意貫徹。
自分で一度やると決めたら、信念を貫き通すこと。

それは、ものすごく窮屈な生き方なのかもしれない。
だって、決めたことが物理的に叶わなかった時には、それが
大きな傷や重荷になってのしかかってしまうから。

医師を諦めた瞬ちゃんも、画家を諦めた安楽校長もそうだ。

でも。
重光さんと話してて感じたのは、いいも悪いもなく、こう
やって生きるんだっていう潔さ、強さ。
最初から最後まで一意貫徹する凄さだった。

僕も立水もどやされたこと。
自分の生き方くらい自分で決めろ!
重光さんは、迷うな、悩むな、後悔するな……そんなことは
一言も言ってない。

中間にどんなプロセスがあっても、それごと肥やしにしろ!
何から何まで燃料にして、自分の生き方くらい自分で決めて
行け!

うん。そうなんだよね。

うまく行かないことを人のせいにするのは、もちろん論外な
んだろうけどさ。
自分がうまく行ってるのを、手伝ってくれる人や運のせいに
するのも考えものなんだ。

もちろん、助力や助言は嬉しい。それは活かしたいし、手を
差し伸べてくれることにも心から感謝したい。
でも、そういう補助があることが前提になってしまうのは、
すっごくまずいんだ。
自分の足で動けなくなってしまうから。

ガキが大人の真似すんな!
そう、どやされたことの中身。

まだすっかすかの自分の中身を埋めるなら、その中身は自分
で作れ! 人のものを入れて半端に満足するな!
……ってことだよね。

中身がない、足りないと認識するから、そこを埋めようと努
力する。そこを借り物で埋めてしまったら、もう自分を入れ
る場所がないだろうが!

シンプルだけど、これ以上ない真正面からのど突きだった。

「ふうっ……」

これまでどうしても自分から拭い去ることが出来なかった、
中学の黒歴史。
なぜ自分だけが理不尽に迫害され続けないとならないのか?

僕は、それにずっと答えを探し続けてきた。
答えなんか永遠に見つからないと知りつつも。

自分の中で欠けたままの答え。
それを埋めるために、一度自分をまっさらな白紙に戻し、そ
こを友達や楽しいことで埋めてきた。

で。
埋まった?

ううん。埋まってない。ちっとも埋まってない。
だから、いつまで経っても自分の飢餓感が無くならない。
どこかで人を羨んでいて、誰かのパーツを借りてきて自分を
満たそうとしちゃう。

生き方も、指針も、金言も……みんなそう。

きっと。
大野先生にも会長にも、最初から僕のそういう危なっかしい
部分が見えていたんだろう。
だから強い警告が出されたんだ。何かを絶対視、神聖視する
なって。

何でも受け入れ、何もかも吐き出す。
一、二年の時のどたばたは、僕の中身をそうやって次々に塗
り替えてきたけど。
じゃあ僕って何よ? 何が『僕』として組み立てられてきた
の?

それが、まだ全然答えられない。

瞬ちゃんの、無趣味を自慢するなっていうのもそう。
曲げられないソリッドな僕があれば、もっとはっきり好悪の
感情が出るはず。それが当たり前のはずなんだ。

でも、夢中で注ぎ込める自我が全然足んない僕は、どこか冷
めてしまってる。
自分自身すら遠いところに置いて、柵の外から見てるみたい
だ。

それじゃ……なあ。


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三年生編 第76話(1) [小説]

8月8日(土曜日)

「二週間コースのみなさん、最後まで集中力を切らさず講習
を終えてくださったことに、講師一同お礼申し上げます」

講師陣を代表して、数学の小川先生が壇上で深々と頭を下げ
た。

「ですが、講習を受けて一安心ではありません。あなた方が
ここで学んだことをまだ熱いうちにもっと鍛え上げ、より高
いゴールに向けて結実させて行ってください」

「講習はあくまでもお手伝いに過ぎません。主人公は君たち
なんです。講習後に、ああ終わったと安心してたるんでしま
うと、効果は一瞬でゼロに戻ります。それを肝に銘じて、こ
れからがんがん追い込んでください」

「明日の模試を受けられる方は、得点よりも受講の効果が現
れたかどうかをきちんと検証してください。本番まで半年も
ありません。まだ半年ある、ではなく、もうそれしかないん
です。時間を無駄にせず、最後の最後まで諦めないで受験に
挑んでくださいね」

「健闘を祈ります!」

ううっす!

先生たちはしっかり発破をかけたけど、受講生の雰囲気はい
ろいろだった。

レベルが上がった実感がないのか、元気がない子。
親にいやいや押し込まれたのか、やれやれもういいやって顔
してる子。
まだ突っ込み足らないのか、指導室に行く準備をしてる子。

でも、みんなに共通していることが一つだけある。
講習が終わったことに、誰も満足していないんだ。

学校の定期試験や模試みたいに、済んだらそれでリセットさ
れるっていう開放感がない。
プレッシャーが一ミリも減らない。逆だ。もっと増えてる。

そういう重苦しさが、講堂にいる受講生全員にべったり張り
付いてるんだ。もちろん、僕にもね。

「ふう……」

いつもなら合宿所の暑い部屋に戻りたくなくて、日が落ちる
まで自習室で粘るんだけど。
今日は、すぐに帰ることにした。

合宿所に宿泊するのも、あとは今晩だけ。
とんでもなく長いように思えた二週間も、あっという間だっ
たんだ。
それは……家に帰れる安堵感よりも、時の流れの速さと無情
さをこれでもかと僕に焼き付ける。

僕は、その二週間を本当に有意義に使えただろうか?
今さら反省しても後悔しても、もう間に合わない。
でも。ほんの十分でいいから、今回の合宿所暮らしが僕に何
を刻み込んだのかを改めて確認したかったんだ。

もう二度と戻ってこない、高三の夏休みの一ページとして。


           −=*=−


「おう、終わったのか?」

予備校から戻ってきたら、重光さんが箒で庭を掃いていた。

「講義は全部終わりました。あとは、明日の模試だけです」

「そうか。きちんとこなせたか?」

「こなせました。それが身についたかどうかは、明日で分か
ります」

「そうだな」

掃き掃除の手を止めた重光さんは、竹箒をひょいと肩に担い
で背を向けた。

「講堂に来い。最初と最後に説法だ」

最初のは終わってるから、これが重光さんとの最後のやり取
りになるってことかな。

「立水はいいんですか?」

「あいつは月末までいる。その時に個別にやる」

ああ、そうだった。あいつは四週コースだったっけ。

「部屋にカバンを置いて、すぐ行きます」

「その前に」

ん?

すたすたと庭を横切った重光さんは、門の横でどっさりオレ
ンジ色の花を着けているノウゼンカズラの塊の前に行って、
そこで足を留めた。

「おまえは、これが何か知ってるか?」

「ノウゼンカズラですよね?」

「そうだ」

重光さんが、箒の柄で株元を指し示した。

「元気が良すぎてな。放っておくと、寺ごと飲み込まれちま
う」

「強剪定されてるんですか?」

「ぎりぎりまで切り詰める。それでも、ここまで茂っちまう
んだよ」

「へえー」

「のうぜんてぇのは、空を凌ぐっていう意味だそうだ」

竹箒を突き上げた重光さんが、夏空をぐるぐるとかき回した。

「たった一夏で、無からここまで立ち上がる。これでもかと
大口を開いて、己を叫ぶ」

ぐるっと首を回した重光さんは、全力で僕をどやした。

「こいつに負けんじゃねえぞっ!!」

「はいっ!」





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三年生編 第75話(5) [小説]

保育士を目指してるばんこ。
音響技師を目指してるりん。
フードコーディネーターを目指してる一色さん。

みんな、一番の動機は好きだから、なんだ。
子供、音楽、料理……がね。

でも、僕は違う。
僕の好きは、すぐには出てこない。
後からじわじわ湧いてくるタイプなんだ。
それが、外から見るとこだわりっていう風に見えるんだろう。

しゃらとの付き合いでもそう。
しゃらのアプローチを受け入れて付き合い始めた頃は、お互
いの表面しかなぞってない。
蓋を開けてみたら、いいところばかりじゃなかったよね。
しゃらの激しいジェラシーや依存癖を、なんだかなあと思う
ことはすごく多かったんだ。

でも、厳しい試練を跳ね返しながら前を向き続けるしゃらの
視線が、どんどん眩しく魅力的に見えてきた。

しゃらっていう女の子の中身をもっと深く知りたい、もっと
強く関わり合いたいと思うこと。
それが、僕をずっとしゃらに繋ぎ続けてる。

大学も職も、きっとそうなんだと思う。
僕のはすごく時間がかかるんだ。
だから、今からピンポイントにかっちり動機を固めろと言わ
れると、ものすごくしんどい。

「で、どうするか」

また原点に戻っちゃったけど、堂々巡りにはなしないよ。

今の時点で動機を固めて受験校を決めることは難しい。
でも、自分の学力レベルに合わせて受験校を決めるのはモチ
ベーションが上がらない。
他に落とし所はないの?

「むむむ」

いや、あるよね。

今仮置きにしているもの。
僕はまだそれに何も熱を入れてないんだ。
だから、時間をかけて熱を入れていけばいい。
僕が、そいつを好きになればいい。

バイオと県立大生物。
バイオがやっぱりイメージ違うと思ったら、そこで違う分野
を探せばいい。生物の中身はいろいろあるんだから。
県立大でのバイオがレベルとかジャンルでちょっとなあって
ことになれば、転出を含めてまた考えればいい。

でも、きっとそこにいないと、時間をかけないと、好きには
なれない。

そう考えることにしよう。

僕が中庭再生を掲げてプロジェクトを旗揚げした時。
最初からガーデニングが好きだった?

違う。
僕は、自分の力と意思を注ぎ込める対象があれば、それがな
んでもよかったんだ。
もし膝が悪くなかったら、きっとスポーツ系の部活に突っ込
んだだろう。

そして僕が中庭整備を通じて好きになったのは、植物そのも
のよりも、園芸を愛する人たちの心の優しさ、細やかさだっ
たんだ。

僕は、最初からそういうスピリチュアルなものが欲しくてプ
ロジェクトを立ち上げたわけじゃない。
寂しくて、仲間が欲しくて。だからみんなでなんかやろうよ。
それしかなかったんだ。
人が作る庭の素晴らしさは、自分が現場に居続けたことで、
味がしみるみたいにじわじわ分かってきたんだよね。

だから、大学もそう考えよう。
今はまだ、おもしろそうでいい。ものすごく好きじゃなくて
いい。
でも、僕がきっちり突っ込めば、それはきっとおもしろくな
る。好きになれる。

「ふうっ!」

どうしても削れなかったこだわり。
好きなことと大学進学をぴったり重ね合わせること。

それを少しだけ手直しすればいい。

『今の好き』と『これからの好き』は、きっと違う。
僕や立水が捨てた物理みたいに、未来永劫好きになれないっ
てものじゃなければ、ちょっと好きをいっぱい好きにするこ
とが出来ると思う。

さっとノートを開いて、固めた方針を書き留める。

『県立大生物。仮を取って確定。本命。
 オープンキャンパスで情報収集。
 本番は、県立大生物よりも高レベルの私大を前受けし、必   
 ず合格すること。それでモチベーション維持』

まだ、自分の中のこだわりやわだかまりがすっきり解消した
わけじゃない。
でも、どこかで方針をかちんと固めないと、僕のようなタイ
プはぐだぐだがひどくなる。

「これで行こう!」

あとは両親としゃらに方針説明をして、ひたすら本番に向け
て受験勉強を充実させればいい。

「ようし!」

僕の立てた計画が、最初に仮で決めていたのと大きく違うっ
てことはない。
僕はただ……自信がなかったんだ。

でも、誰かにそれでいいと言ってもらえても、それはなんだ
かなあと注文をつけられても、僕の決断は僕自身がしなけれ
ばならない。

「さて、と」

方針を決めた。『仮』を取った。

あとは、ひたすら雑念を排除して勉強に集中すればいい。
かけてる時間。その間に覚えられたこと。身についたこと。
それがきちんとバランスしてたかどうかは、この後の模試で
分かる。

そこでずっこけないように。

「いっちょ踏ん張りますかあっ!」




nemu.jpg
今日の花:ネムノキAlbizia julibrissin




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三年生編 第75話(4) [小説]

「うーん……」

予想外に、相談員の先生が僕の目指している分野に詳しかっ
た。てか、バイオをキーワードに受験校を考える生徒がそれ
だけいるってことなんだろう。

問題は、その分野を目指す動機だった。
僕の持ちかけた相談を受けてくれた先生は、そこの捉え方が
すごくシビアだった。

地球の未来とか環境問題とか、そういうぼわっとした興味で
大学を目指すなら、大学の選択肢も入学してからの分野絞り
込みもいろんな切り口を作れる。

でもバイオ関係は、動機がくっきり二系統に割れるらしい。
サイエンスとしておもしろそうだからというケース。
そして、就職に有利だからと実利を取るケース。

もし、就職先をバイオサイエンスで縛らないということなら
ば、大学にいる間は好きなことを探して突っ込めばいい。
でも就職先をバイオ系にするなら、植物よりは微生物や動物
系のバイオに進んだ方が圧倒的に選択肢が増える。

僕が思ってた以上に、植物とバイオの掛け合わせだと絞り込
まれちゃうんだ。

仮置きしてた県立大生物にもバイオ系の講座があって、対象
の中には植物も入ってる。
だから、当然本命候補にするべきだと。そう言われた。

もう一つの問題は、就職らしい。
会社の規模や待遇にこだわらないとか、そもそもバイオと関
係なくてもいいというなら、全然問題なし。

でも将来一流企業で働きたいと考えているなら、それにふさ
わしい大学に進学しておかないと、そもそも採用面接すら応
じてくれないよ。

ううー、先生の突っ込みは結構ショックだった。

最初に高橋先生に言われたみたいに、いい大学に入ることが
バッジの意味くらいしかなくても、実際にはそのバッジで決
まる選択肢があるんだってこと。その現実を……だめ押しさ
れた感じ。

相談室を出て、でっかい溜息をついて。
それでも、もう一度考え直す。

僕がぽんいちに入ったのは、そこしかなかったからだ。
校則がゆるくて、僕が入れるくらいのレベルで、荒れてない
自由な共学校。
ぽんいちの他には選択肢が何もなかったんだ。

それに比べたら、大学は選べる。
入った後での選択肢もある。
そして、レベルが合わない、教わりたい分野がないという場
合は、他大学への転出を目指すというやり方もあるそうだ。

つまり、僕が使えるツール、選べる方向はいくつかあって。
あとは僕の動機をどう位置付けるか。
どこにモチベーションを置くか。

それをしっかり考えろってことだよね。

結局、最初に戻っちゃった。


           −=*=−


「どうすっかなあ」

結局いろいろ材料を揃えても、原点に戻って来ちゃう。
僕が何に興味があるのか。何をしたいか。

「うーん……」

高橋先生の最初のレコメンドは、そんなん適当でいい、だっ
た。

やりたいことがもしあったとしても、その百パーセントは実
現出来ないんだし、自分の実力に見合ったところに取りあえ
ず入っておいて、そこでゆっくり探せばいい。

会長も、同じことを言ってたんだよね。
会長は何かやりたいことがあるからその大学を選んだってこ
とじゃない。後から指針を見つけたタイプなんだ。

でもなー。それだと僕はモチベーションが保たない。

庭を作る時に、仕上がりの予想図を思い浮かべるでしょ?
そういうイメージが欲しいんだよね。
庭だって、ずっと手直ししたり、作り直したりし続ける。
どこかがゴールで終わりっていうことはないんだけどさ。
それでも、はっきりした区切りがあるんだ。

人生の大目標みたいな構えたものは要らないし、きっと僕に
は一生そんなの出てこない気がする。
でもね、だからってなーんとなく前に進むのは嫌なんだ。

ある期間は、自分をそこに全部ぶち込めるような目標が欲し
い。それを大学に置きたい。

「そうしたら、と」

就職っていう出口で大学の選択肢を選ぶのは、僕には『向い
てない』。

甘いって言われるかもしれないけど、大学に進む以上に職に
就いて得られることのイメージが湧かない。
今までバイトしてたことと、働いてお給料をもらうことの間
にどれだけ大きな違いがあるの?

責任の大きさや働いてもらえる報酬……そういうのに差があ
るだけで、働くっていうこと自体はどんな職業で何をやって
も差がないように思えるんだよね。
そして、僕はその仕事が理不尽じゃない限りなんでもこなせ
るんじゃないかな。

そうしたら、就職する時に『好きなことでお金もらう』とい
う要素をどれだけ混ぜ込むかの違いしかないと思う。


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三年生編 第75話(3) [小説]

たった一週間くらいで、人間ががらっと変わるはずなんかな
い。確かにそうだと思う。
僕の迷いや立水の攻撃性は、弱点というよりも僕らの本性に
近いんだろう。

それを少しでもましにしようとするなら、矢野さんが言って
たみたいに、自力で対策を考えて自分を鍛えていくしかない
んだ。

合宿所に来たばかりの時の重光さんのどやしは、問題点を直
視してすぐに修正しろっていう具体的なものだった。
そこを半端にしたままだと、勉強に気合いが入らないぞって
いう直言。

立水はそれを真っ直ぐ受け止めて、すぐに動いた。
僕も立水ほどの馬力はないけど、迷いの次のステップを探し
てる。

家や学校。まだひ弱な僕らを囲い込んでくれる安全な牧場。
でも、条件付きでもそこから出れば、僕らは自分のぐらぐら
な足元を見るしかなくなる。

「合宿所に来たのは正解だったな」

駅を降りて予備校に向かう大勢の学生たち。
その中の一人として、僕は夏空を見上げながら歩道を歩く。

そうしたら。
ぽわっと柔らかそうなピンクの花がいっぱい咲いてる木が目
に入った。

ネムノキだ。

それは、ものすごくインパクトのある花じゃない。
でも、夏を控えめに彩って、その後結実していく。

夏期講習で僕らが身につけるものも、きっとそういうものな
んだろう。
まだ隙間だらけの頭の中に、少しずつ知識を詰め込んでいく。
その作業は、うんと地味だ。
でも、きちんと手と頭を動かした分しか後で実らない。

頭のどこかに入っていれば、それを探すことは出来る。
でも、入っていないものを引っ張り出すことは出来ない。
僕らは、魔法使いでも錬金術師でもないからね。

「ふう……」

でっかい綿雲を浮かべた青空。太陽は朝から元気いっぱい。
今日も暑くなりそうだ。

「夏休み……かあ」

予備校のエントランスで、僕はふと振り返ってもう一度夏空
を仰ぐ。

一年の夏休みは『器を満たす』。
二年の夏休みは『波乱と収束』。

じゃあ、今年の夏休みは?

『不在』かもね。

いるべき人がいない。
あるべきものがない。

それは一時的なもので、ある期間が過ぎれば取り戻せる。
でも不在の間に、僕らはその意味を考える。
考えざるを……得ない。

「しゃらは、どうしてるかなあ」


           −=*=−


「ぶふう!」

今日の講義は終わり。
進路相談に行かなきゃ。

テキストやノートをさっとバッグにしまって、小走りで教室
を出る。

相談室は混み合うからなあ。

「あちゃあ」

長蛇の列じゃないけど、相談室の前にはもう十人くらいの生
徒の列が出来ていた。
スーパーのレジじゃないから、そんなにさっさとは進まない。
しばらく待つしかないなあ。

廊下の壁によっかかり、バッグから今日の講義のノートを出
してざっと目を通す。

そうなんだよなあ。
一般コースでも、後半はどんどん講義の中身が濃くなってい
るのが分かる。
まだ授業で習っていない範囲もたっぷり盛り込まれていて、
そんなの知らないやってないじゃ、全然話にならない。

マカがやってたみたいに、授業の進行は無視して前倒しでど
んどんこなしてしまい、あとはがんがん応用を鍛えるってい
う風にしないと、レベルの高い大学を受験するには間に合わ
ないんだ。

きちんと年間カリキュラム通りに授業をこなしてるうちの高
校は、そもそも高レベルの大学進学者が最初からいないって
いう前提なんだろう。

沢渡校長や安楽校長がねじを巻いたって言っても、全体とし
ては大きく変わってない。
がりがりやりたい子は、最初から進学校に行ってくれ……と
いうこと。

僕も、危機意識を持ってて自力でこなせる子をどんどん伸ば
すより、なかなか足が進まない子にがんばれって背中押して
くれる環境の方がいいのかなあと思うけど、そうすると学校
としてのレベルがなかなか上がらない。

でも学生の実力って、どこで伸び出すか分からない。
学校の方で、僕らのやる気スイッチを押す機会をもっと増や
して欲しかったなーと思ったりする。

そこがなあ。

がんばれっていう後押しが強すぎると、僕らが余裕を失うこ
とになる。今でもほとんどただの看板と化している『自主独
立』の校是は、完全に意味を失うだろう。
だからって、これまで通りの放置とゆるゆるじゃ地盤沈下が
止まらない。

さじ加減が本当に難しいよな。
あっちもこっちも全部立てられるシステムっていうのは……
ないんだよね。

とか。
いろいろ考え込んでいる間に、順番が来た。

「次の生徒さん。どうぞー」

お、女の先生だ。

「よろしくお願いします」

「はい。どんな相談ですかー?」



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三年生編 第75話(2) [小説]

「現役でなくなっても、全然変わらないや。すごいなー」

「おい。工藤」

お、立水か。

「おはよー。なに?」

「あのおっさん、プロか?」

昨日の矢野さんの鮮やかな身のこなしを見て、興味を持った
んだろう。立水がぐいっと首を突っ込んできた。

「プロ、だった」

「引退したのか?」

「去年ね。ウエルター級のトップランカーだった人だよ」

「すげえな……」

「すごいわ。引退しても、現役と同じトレーニングを欠かし
てない」

「ふうん」

「人に教えるのもうまいし、根性論押し付けるようなところ
はこれっぽっちもない。理詰めで、しかもちゃんとお手本を
見せてくれる」

「なるほどな」

「心技体がきちんと鍛え上げられると、人間てあそこまで
シャープになるんだなあって感じ」

「一緒にいた女の方は?」

「僕らより少し上の女子大生」

「全然しゃべらねえし、無愛想だな」

「あっちは論外さ」

「へ!? おまえ、知ってんの?」

「去年、バイト先でずーっと絡まれて、ひどいめにあったん
だ」

「絡まれただあ?」

「そ。ひどかったんだよ」

論外だったよな。
エゴの塊って人は、他にも見たことあるけどさ。
あれくらい自分のわがまま勝手で動いてて、それなのに、自
分がない。自我が、腐ってる以前だもん。

「実の親まで匙を投げてたコミュ障のわがまま女。人の気持
ちなんかこれっぽっちも考えない。そんなだから、誰にも相
手してもらえなくて、寂しくてしょうがない」

「それで、絡むってか?」

「そう。一方的に非常識なちょっかいを出し続けるんだ。徹
底して無視してたんだけどさ」

「ふうん……」

「リョウさんはきちんと自分を研いで磨いてるけど、あいつ
は自分を棚に上げて、人を削ろうとするんだよ」

「なんだそりゃ。迷惑なやつだな」

「おまえならすぐにキレるだろ。僕ですらキレそうになった
からね」

「で?」

「とうとう親から干されたんだよ。そしたら、自殺未遂」

立水が、その場にしゃがみ込んだ。

「ガキかよ……」

「まあねー。発見者は僕としゃらだったんだけど、ジョグの
途中だった矢野さんが、救命措置を手伝ってくれたんだ」

「うわ……すげえ」

「そこから、根性鍛え直すって言ってマンツーマンで指導し
てんの」

「直るのか?」

「分からん。でも、雰囲気はがらっと変わったかな」

「へー」

そう。どうしようもなく弱かった自我の部分。
まだまだ足りないんだろうけど、そこをなんとかしようって
いう意識が僕らにも感じ取れるようになった。

わがままに振る舞うんなら、先に、本当にわがままになれよ。
矢野さんが、そこをがっつり仕込んだんだと思う。

「まず自分を研げるようにしてから、人との関わり方を考え
ろ。きちんと鍛えて弱い自我をましにしろ。矢野さんの指導
はそれだけだと思う」

「ふうん」

「それは、彼女だけのことじゃないよ。僕らも同じだ」

「ああ。そうだな」

ぐんと立ち上がった立水が、竹刀を持ったような格好で、両
腕を鋭く振り下ろした。

目の前には誰もいない。
でも立水の目には、まだ倒せていない未成熟の自分がはっき
り見えているんだろう。

「ちぇすとーっ!!」


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三年生編 第75話(1) [小説]

8月3日(月曜日)

「よ……っと」

さすがに、一週間経つと早起きにも慣れる。
目覚ましが鳴る前にさっさと起きて床を上げ、顔を洗って、
掃除の準備をする。

「おはようございます」

「おう」

重光さんは、僕らをどやすネタがなくてつまらなそうだ。

今まで朝のお勤めは三人だったけど、今朝は二人多い。
掃除はあっという間に終わった。

それにしても……。

矢野さんは昨日と何も変わっていないのに、悪魔の顔はぱん
ぱんに腫れ上がって、人相が変わっていた。
相当蚊に刺されたんだろう。

洗面所で顔を洗う時、矢野さんに昨夜の様子を聞いてみた。

「矢野さん」

「うん?」

「だいぶ刺されたんですか?」

「あいつはな。そこがまだ甘いんだよ。さっき、講堂の畳の
上を見たろ?」

「……すさまじかったです。何匹退治したのか分からないく
らいに、こんもり……」

「そっちが俺の方だ。俺は、自分のディフェンスゾーンの中
には絶対に連中を入れさせねえ」

ディフェンスゾーン……か。

「けどな。さやは、連中がそのゾーンに入ってからでないと
気配に気付けないんだ」

「あ……そうか」

「そう。一匹ならまだ対処出来るが、いっぱい飛び回ってる
状況じゃあ、退治が間に合わないのさ」

「げえー」

「これで、気配を一早く察知する重要性が分かっただろ」

「そっか。早く気付けば、相手のパンチに力が入る前にかわ
したり、先手を打つことが出来るってことか……」

「そうだ。ディフェンスは、攻撃をかわすことと威力を削ぐ
ことのセットさ。どっちも、相手の攻撃を読まないとうまく
行かねえんだ」

「そうですよね……」

「問題は、ディフェンスだけじゃねえよ。オフェンスが良け
れば、あそこまでひどくはやられない」

「どういうことすか?」

「俺は前に、ボクシングはジャブに始まりジャブに終わるっ
て言ったろ?」

「はい。よーく覚えてます」

「蚊を相手にするのに、ごついパンチは要らない。いかに軽
打で仕留めるか。そして、ディフェンスを乱さずに攻撃を出
し続けることが出来るか」

「うわ! そっかあ!」

「だろ? 相手の攻撃に対してぴりぴり神経を張り詰め続け
てると、一番強い気配しか探れなくなる。攻撃も単調になっ
て、仕留める精度が下がる」

す、すげえ。

「余計な力を抜くことで感じられる気配や、出来る動きがあ
んのさ。そいつは、こうやって実体験してみないと分かんね
えんだ」

僕に説明しながらも、矢野さんは軽くジャブを出し続けてる。
それはシャドウじゃない。寄ってくる蚊をちゃんと仕留めて
る。すげえ……。

「相手がたかが蚊だと言っても、それをきちんと撃退するに
は、自分の持ってる技術と精神力をうまく組み合わせてコン
トロールしないとならんのさ」

はあ……。
思わず溜息が漏れてしまった。

「鍛えるって……奥が深いんですね」

「まあな。蚊にも勝てねえんじゃ、人間相手ならもっと勝て
ねえよ。べっこりへこんでるだろ?」

そう言って、矢野さんが悪魔を指差した。
備えていたはずなのに蚊に刺されまくった自分が情けないん
だろう。悪魔の表情には、昨日のような冴えがなかった。

「どう立て直すんですかね?」

「鍛えるしかねえよ。それが、じいさんの言った研ぐってこ
とだ。そいつぁ技術だけじゃ埋まんねえ。足りない分をどう
補うか、自力で考えろってことだ」

「なるほど……」

「俺たちのトレーニングは、それの繰り返しだよ。特効薬は
ねえけど、無駄もねえのさ。どうやって自分の欠点潰すか。
やり方工夫して、ひたすら練習するしかねえ」

「僕らの勉強も同じですね」

「ははは。そうだな。まあがんばってくれ。俺らはこれから
帰る」

「久しぶりに会えて嬉しかったです」

「おう。またジムに遊びに来いや」

「そうですね。落ち着いたら」

「じゃあ、またな」

「お疲れ様でしたー」

悪魔を伴って重光さんに挨拶した矢野さんは、何かを説明し
ながら駅への道を歩いて行った。



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