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三年生編 第74話(6) [小説]

事情聴取が終わったらすぐに帰ってもよかったんだけど、一
応信高おじさんが来るまで待つことにした。
去年のお盆以来会ってなかったから挨拶もしたかったし、健
ちゃんが来るかどうかも確かめたかったんだ。

交番のお巡りさんに事情を話して、おじさんが来るまで待た
せてもらう。

「矢野さん、待たせることになっちゃいますけど」

「かまわんよ。俺らも、今日は帰るだけだ」

「トレーニングは?」

「帰ってからのメニューはあるが、それは寺でやる」

「うわ……ハードそう」

「まあな。体力より、精神力。こいつの一番の弱点だからな」

そう言って、矢野さんが横目で悪魔をじろっと睨んだ。
悪魔は黙って俯いてる。

「飲み込みは早い。テクニカルな部分も上向いてきた。で
も、一番肝心のところが相変わらずでな」

「相変わらず……ですか」

「そう。病的な逃げ癖。相手がサンドバッグやミットの時は
いいんだよ。相手が意思を持った人間になった途端に、腰が
引ける。パンチが全部手打ちになる」

ふうっと大きく息をついた矢野さんが僕の30センチくらい
前のところに立った。

「この距離だとすぐにクリンチ出来るし、ここから出すパン
チには力が入らねえ。ボクサーにとってはオフェンスレンジ
の外だ」

「はい」

「でも廃工場でやり合った時には、工藤さんがこの距離から
何か技ぁ出そうとしたろ?」

「そうですね。合気道は、接近戦をみっちり練習するので」

「やっぱりな……組み技だと思ったが、合気道だったか」

ひょいと鼻先に伸ばしてきた矢野さんの手首を極める。

「む! 早い」

「とろとろやってたら、その間にノックアウトです」

「だな。さや、今の見てたろ?」

「……はい」

「俺が敵意を持っていようがいまいが、工藤さんは俺の手の
動きに応じてすぐ技を出す。出せる。それが怖がんねえって
ことなんだよ」

「……」

「トレーニングで打ってるサンドバッグやミットは、おまえ
を攻めてこねえ。でも、試合の相手は手を出す。打ち合いに
なるのがボクシングさ。そこで相手のパンチを上回ろうとす
るなら、パンチを怖がって目を瞑ってちゃあ話になんねえん
だよ」

あ……そうかあ。
つい、目を瞑っちゃうんだろなあ……。

「それを克服するには、二つの要素が要る。一つは、パンチ
を怖がらなくなるまで自分の心を鍛えること。もう一つは」

ひゅっ。ひゅっ。
矢野さんが僕の頬の真横に素早いショートストレートを二本
通した。

「相手のパンチの気配を感じることだ」

交番の若いお巡りさんが、興味深そうに寄ってきた。

「矢野さんは、ボクシングをされてるんですか?」

「はっはっは。一応プロでした。昨年引退しましたけどね。
今はフリーのトレーナーをやってます」

「へえー、こちらの女性が選手さんですか?」

「そうです。まだノービス。でも、だいぶ土台が仕上がって
きたんで、もうちょい体がキレてきたらCライ取らせます」

「うわ……プロですか! すげえ」

「まあ、それで食ってくってわけじゃないんですけど、遊び
じゃなく試合で真剣に拳を交わすってことをしないと、心身
が鍛えられないんでねえ」

「確かに……」

「あのしょうもない連中みたいに、腐った頭に力だけ乗せら
れたんじゃ、拳がかわいそうだ」

しみじみと言った矢野さんが、ぎゅっと握った自分の拳をじ
いっと見つめた。

「力は、自分に使わないと意味がないですよ」

矢野さんでないと言えない、重い重い音葉だと……思った。




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三年生編 第74話(5) [小説]

交番で、矢野さんと僕がかわりばんこに事情を聞かれた。
僕らは、それに機械的に答えていく。

僕らは何もしていない。
向こうが一方的に因縁をつけてきただけ。
矢野さんが、自己防衛のために向こうの攻撃に対して最小限
の反撃をした。おしまい。

のびてるのはこっちじゃなくて向こうだから、普通は警察か
らのお小言があるんだろうけど、なにせ刃物を振り回したや
つがいるからね。

論外だよ。

ヤンキーどもは、交番できっついお灸を据えられていた。
特に、加害者……というか無様に被害者になってしまった二
人にはたっぷり前科があるらしく、すぐに放免とはならない
らしい。

お巡りさんがしてくれた説明だと、あのごつい二人は半グレ
という連中で、ヤクザより暴力的でタチが悪いんだとか。
五人のうち高校生らしい三人プラスさゆりんは、そいつらの
パシリにさせられてたってことなんだろう。

さゆりんと残りの三人は、高校生ということで親が呼ばれる
ことになった。
携帯が取り上げられてるから、実家や信高おじちゃんへの連
絡をどうしようかと思ってたけど、警察で連絡を代行してく
れるのはありがたい。
こういう時に携帯がないのは不便だよなあ……。

「よう、工藤さん」

「はい?」

事情聴取が終わって暇そうにしていた矢野さんが、のっそり
立ち上がった。

「今日は携帯持ってねえのか?」

「ううー。今泊まってる合宿所は、宿泊中の携帯使用一切禁
止なんですよ」

「ほう。今時珍しいな」

「お寺ですからねえ」

「なんでまた?」

「実家から予備校に通うのはしんどいです。合宿所は一泊五
百円なんですよ」

「おいおい、簡宿より安いぞ、それ」

「あはは。その代わり、食事と冷房なし。朝は五時起きで掃
除と勤行。部屋の裏は墓地で、そこら中蚊だらけ」

「まあ、寺ってのはそんなもんだ。俺も使ったことがある」

「へえー。矢野さんの若い頃ですか?」

「そうだ。まだ四回戦でやってたころだな。合宿で血ぃ吐く
までトレーニングして、ぎちぎち体絞って」

ふっと笑みを浮かべた矢野さんが、天井を見上げた。

「懐かしいなあ……」

きっと。
矢野さんが、何も余計なことを考えずにボクシングに没頭し
ていた時期なんだろう。

「なあ、工藤さん」

「なんですか?」

「その寺ぁ、俺らも泊まれるのか?」

ええーっ!?
びっくりしたけど、単に懐かしいから泊まるなんてわけない
ね。悪魔のトレーニングの一環なんだろう。

「聞いてみますね。携帯借りられます?」

「いいぞ」

矢野さんの携帯を借りて、重光さんに電話をした。

「なんだと? ボクサー二人?」

「はい。だめですか?」

「かまわんが、何もせんぞ。条件はおまえと同じだ」

「分かりました」

右手でオーケーサインを出して、矢野さんに伝えた。

「助かる。こいつの精神(こころ)を鍛えるいいチャンスだ」

やっぱりか……。
でも、どういうトレーニングをするんだろう? 興味津々。



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三年生編 第74話(4) [小説]

と。
矢野さんとずっと話していたかったんだけど、あいつらは僕
が連中を無視して矢野さんと話していたのが気に入らなかっ
たんだろう。

「このクソ生意気なガキゃあ! どつき倒すっ!」

いきなりごつい方の一人が殴りかかってきた。

合気道で取り押さえてもいいし、逃げてもいいんだけど、判
断がつかないうちに拳が飛んできた。

がしいっ!

避けきれずに殴られたかなあと思ったら、矢野さんが相手の
拳の横に拳を当ててパンチを逸らしていた。
パーリング。相変わらず鮮やかだなあ……。

「工藤さん、こいつら知り合いか?」

「東京に知り合いなんかいませんよ」

「ああ、じゃあ半端もんか」

矢野さんは、僕の横で連中と睨み合っていた立水の襟首を掴
んで僕の方に押しやると、前に出た。

「ガキども。警察呼ばれたくなかったら、とっとと帰ってク
ソして寝ろ」

げ……。挑発した……よ。

「こ、この野郎!!」

五人の中で、がたいのいい二人が激昂して突っかかってきた。

どん!
クラウチングスタイルになった矢野さんが、先に突っかかっ
てきた男の横腹に高速のショートフックを放った……らし
い。
がくっと膝を折った男が、悶絶しながらごろごろと路面に転
がった。

パンチの軌道が全く見えない。
ヤンキーは、何をされたかも分からないだろう。

男が手で押さえてる場所から見て……レバーか。
浦川さんが一発で沈んだやつだ。
あれは……当分立てないと思う。うう、すげえ。

「ぎゃあぎゃあ騒ぐだけで、きちんとボディを鍛えねえから
そういうことになんだよ。分かったか? ガキが」

唖然としていたもう一人の男は、血相を変えてナイフを腰か
ら引き抜いて構えた。

「ぶっ殺してやる!」

「ほう?」

プロボクサーでも刃物を向けられれば怖いと思うんだけど、
糸井夫婦の用心棒をやってた矢野さんはこういうシチュエー
ションに慣れてるんだろう。顔色一つ変えない。

男に頓着しないでくるっと振り返った矢野さんは、怯え顔を
見せていた悪魔に話しかけた。

「さや。よく見とけ。おまえは肝心な時に怯えが出る。相手
に勝つ前に、自分の弱さに勝てんと試合にならんぞ?」

「……はい」

この修羅場で教育すか! 絶句……。

ナイフを構えた男は、それで相手がびびると思ったんだろう。
でも、矢野さんは平然としてる。

男を無視して悪魔に話しかけたことで、いきなり逆上した。

「くたばりやがれえっ!!」

逆手に持ったナイフを振り下ろした場所には、矢野さんはも
ういない。

「どうした? 空気を切って楽しいか?」

「こ、こいつ」

店の前には僕らを遠くから取り巻くようにして幾重にも人垣
が出来ていた。
その人垣の輪の中にさゆりんが入っていることを確認して。
あとは、矢野さんのアクションの邪魔をしないよう僕らは下
がった。

いくら男がナイフを振り回しても、その射程には矢野さんが
いない。刃先の動きを見切り、軽やかにステップを踏んで躱
し続ける。

すぐに、男の息が上がってきた。
矢野さんは、平然。

「なんだなんだ。根性のねえやつだな。もうへたばってんの
か? まだ1ラウンドも終わってねえぞ?」

「うるせえっ!!」

腹のところに両手でナイフを構えた男が、矢野さんに突進し
ようとした。矢野さんが避けると後ろの野次馬にナイフが当
たっちゃう。だから避けられない。
男は、そう計算したと見た。

「ふん。仕留めるか」

でも、矢野さんはどこまでも冷徹だった。

距離を離すんじゃなく、逆に一気に距離を詰めて、こめかみ
にジャブを出した。

ごっ!

男の出足が止まると同時に。
そのまま前にばったり。

「あほう。プロボクサーがグローブなしでパンチを出したら、
ナイフよりこええんだよ。ちっとは勉強しろ」

「あの」

確かめる。

「手加減……」

「してるぜ。軽いジャブさ。でも、突っ込んでくる勢いがあ
るから、カウンターになる。脳震盪でしばらく起き上がれね
えよ」

「すげえ……」

立水が、目をまん丸にして矢野さんを見てる。

騒動を見た人が警察に通報してくれたんだろう。
やっとこさ、警官が二人やってきた。

人垣に囲まれて、逃げたくても逃げられないヤンキーの残り
三人とさゆりん。そのまま御用。

しゃあない。乗りかかった船だし、今日は付き合うか。
まだぽかんとしていた立水に伝言を頼む。

「立水。このあと警察で事情を聞かれると思うし、僕の関係
者もいるから、ここで別れようぜ」

「へ!? 関係者だあ!?」

さゆりんを指差す。

「又従妹なんだ。ちょい、親戚付き合いがあってね」

「……。わあた」

「携帯を取り上げられてるから、公衆電話からしか連絡出来
ない。重光さんに事情を話しといて。そんなに遅くなること
はないと思うけど、確約は出来ないから」

「そうだな。話しとく」

「助かる」

僕と立水が打ち合わせをしている間、矢野さんが警察の事情
聴取に手際よく答えていた。
こういうケースでの応対には慣れてるんだろう。
来知大の学生を処刑した時もそうだったんだろうなあ……。


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三年生編 第74話(3) [小説]

トレイと紙ゴミを片付けて、ぽんと店舗の外に出た途端。

目と鼻の先を、かなりガラの悪そうな若い男たちが数人肩を
いからせながら通り過ぎていった。ちょっと店を出るのが早
かったら、出会い頭にぶつかっていたかもしれない。

「あっぶねー……」

小声で言ったのが、その男たちの誰かの耳に入ったのかもし
れない。

僕らの数メートル先で足を止めた連中が、一斉に僕らの方に
振り返った。

僕は気付かないふりをして反対側に歩いて行こうとしたんだ
けど、同行していたのが立水だということをすっかり忘れて
いた。

「なんだ? 態度のでかいガキが! ガンつけやがって!」

うわ……ま、まずい。
立水も知らんぷりすればいいのに、絶対に目を逸らさない。

「おまえらの知ったことか」

火に油。
ま、まずい。
まずい、まずい、まずい、まずいーーっ!!

新宿のど真ん中でがらの悪い連中と乱闘でもしようものなら、
絶対に学校のお咎めなしじゃ済まない。
それ以前に、ここから無事に離脱出来るかどうかが……。

慌てて、連中の人数を見回して戦力判断しようとして、固まっ
てしまった。
男どもの一人に抱え込まれるようにして女の子がぼーっと立っ
てた。その子に……見覚えがあった。

「さ、さゆりん」

派手な服。下品な化粧。染めた髪、じゃらピアス。
完全に崩れてる。
でも格好とは裏腹に、表情にまるっきり生気がなかった。
信高おじちゃんの家を飛び出してから、さゆりんがどういう
経過を辿ったのか、一目瞭然で分かる。

「しゃれに……ならん」

ガラの悪い連中は全部で六人。
でも、腕っぷしがいいのはそのうち二人なんだろう。
年齢や体格がくっきりその二人だけ違う。
そいつら以外は、さゆりんを含めて取り巻きだと見た。

僕と立水だけなら隙を見て逃げればいいんだけど、さゆりん
が心配だ。なんとか足止めして、警察を入れたい。

くそおっ!
どうして、こうなんでもかんでもいっぺんに降ってくるかな
あ!

ぞろぞろと僕らの方に向かって戻ってくるヤンキー。
逃げるなら今だけど……立水はやる気満々だし、僕もさゆり
んを置いては……。

「おう」

今度は僕らの反対側からいきなり低い声がして、慌てて振り
返った。

おおっと、びっくりぃ!!

「あああっ!! 矢野さん!!」

「はっはっは! 工藤さん、久しぶりだなあ」

「久しぶりですー! 今日はどうしたんですか?」

近付いてくるヤンキーにちらちら目をやりながら、素早く確
かめる。
矢野さんが、背後に顎をしゃくった。

「こいつをスパーリングに連れてったんだよ。もうすぐCラ
イのテストだからな」

「うわ!」

そこに、久しぶりに見た悪魔がいた。
いくら今日が涼しいって言っても、真夏に長袖のサウナスー
ツ着てうろうろすんのはしんどそう……。

でも、眼が前見た時と全然違ってた。
最初の頃は、いつも人を突き刺すような邪眼。
騒動で目力を失ってからは、どろんと濁って、腐ってた。
でも今の眼は……飢えで満たされてぎらぎらしてる。

「トレーニングは進んだんですか?」

「進んだぜ。まだ体がきちんと絞り切れてねえし、取り組み
にも甘さがあるけどな。でも、基礎トレはちゃんとこなせる
ようになった」

そう言った矢野さんが、悪魔にではなく、僕にひょいとジャ
ブを出した。

ぎりぎりでスウェイして躱す。
今度はミット打ちの要領で手のひらを出してきたから、その
手のひらにとんとんとリズミカルに拳を当てる。

「おう。腕はなまってねえな。トレーニングは?」

「してませんよー。悲しき受験生ですから」

「はっはっは! 受験が済んだらジムに来い。がっちり絞っ
てやっからよ」

「えうー」



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三年生編 第74話(2) [小説]

駅近くのマックに入って、それぞれセットメニューを頼んで
席に着く。

「おい、工藤」

「うん?」

揚げたてのポテトをぽいっと口に放り込んだところで、立水
が直に突っ込んできた。

「おまえはどうすんだ?」

「志望校?」

「そう」

「今は、まだそのまま。県立大生物仮留め」

「そのまま行くのか?」

「明日、カウンセラーに相談する」

「ああ、なるほどな」

「僕一人で考えても、手札が何も増えてないから結論なんか
出ないよ」

「だな。それから……か」

「ただ」

「ん?」

コーラを一気飲みしていた立水が、目だけぎょろっとこっち
に向けた。

「何をする、のターゲットは、うんと絞ることにする」

「ほ? そんなん出来るのか?」

僕がぐだぐだ迷っていたことを知ってる立水の突っ込みは、
本当に容赦なかった。

「そこがふらふらだと相談も出来ん」

「当たり前だ。で?」

「植物とバイオ。その掛け合わせで考える」

「……」

立水が黙った。それから……。

「おまえの……イメージに合わんな」

「かもね。ずいぶん迷ったんだ。陵大付属の武田くんが海洋
生態やりたいって言ってたのを聞いて、僕も生態学いいなあ
と思ったんだけどさ」

「俺も、おまえならそっち方面かなと思ったんだが……」

「自分がいろんな人と関わってきた中で、もらったものだけ
でなくて失くしたものも結構あったかなあと思ってさ」

「は? それがさっきのと、どう関係するんだ?」

「生態学って、生き物同士の関わり合い方とか、そっちを調
べる学問でしょ?」

「ああ。そんなイメージ」

「その関わり合いの掛け合わせ数が多過ぎて、目が回っちゃ
うんだよ」

「……。なるほどな」

「僕の場合、好きなものが多いと目移りする。気が散る。ど
れかに集中出来なくなる。それが……こっちに来てはっきり
分かったんだ」

「ふうん」

「たくさん入れても、その後きっぱりけり付けてどんどん捨
てていける性格ならいいんだけど、どうしても関わったもの
に引っ張られる。んで、僕はそれを全部こなせるほどのエネ
ルギーがない」

「だから、バイオ……か」

「そう。なぜなにがはっきりしていて、それをどう持って行
くかの方向付けも整理しやすい。好きかって聞かれたら、ま
だうーんていう感じだけど、理論や基礎がパーツとしてはっ
きりしてる方が僕に向いてる気がするんだ」

「好き嫌いで決めねえのか?」

「一番好きなことをやりたいのはやまやまさ。でも僕は、そ
れを決めるのに時間がかかり過ぎる」

「めんどくせえやつ」

「まあね。自分でもそう思う。でも、最初から嫌いならとも
かく、好きになれそうなものなら自分の側に持ってこれるま
でがんばればいい。最初好きだったのにすぐ色褪せちゃうっ
ていうよりかはいいかなと思ってさ」

「いろんな考え方があるもんだな」

立水は呆れ顔をしてたけど、それをバカにするでも、放り出
すでもなかった。

「俺は……どうすっかなあ」

「そっか、デフォに戻したんだっけ?」

「ああ。工学は嫌いじゃねえんだが、どうしても物理を避け
て通れん。そっちは外す」

だろなあ……。

「理系にこだわらんで、もうちょい選択肢を広げんとな」

「経済とか?」

「ああ。斉藤先生にはそっちを勧められた。大学によっては
数学を活かせるってよ」

やっぱりな。さすが、瞬ちゃんだ。立水をよーく見てる。
受験勉強の無駄を最少に出来るから経済、じゃないんだ。
こいつのとことん突っ込む性格を、大学に入ってからきちん
と活かせるって考えたんだろう。

あとは……こいつがどういう選択をするか、だな。

「まあ、夏期講習の間に方針固めるよ。さすがに、この後も
ずるずる引っ張りたくない。仮はさっさと取るつもり」

「だな。俺も仕切り直しだ」

ちょうどセットメニューを同時に食べ切ったところで、昼飯
を切り上げることにする。

「さて。出るか。立水は、また予備校に行くの?」

「いや、今日はそんなに暑くねえから寺へ帰る」

「だな。僕もそうしよう」

昨日までは梅雨明け十日の格言通りでめちゃめちゃ暑かった
んだけど、今日は薄曇りで風があってしのぎやすい。
夜も快適だと思うし、さっさと帰って復習しようっと。

そこまでは、とことん有意義だったんだ。
講義にも集中出来たし、立水と情報交換も出来たし、気晴ら
しも出来たし、結構涼しいし……。

でも、その後すぐに全く予想もしていなかった事態に巻き込
まれるなんて……思ってもみなかった。



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三年生編 第74話(1) [小説]

8月2日(日曜日)

二週間コースの最後の日曜には模試があるけど、中日の日曜
は半日の講習になってる。いくら短期集中の二週間と言って
も、休みなしで全部びっしりだと集中力が持続しないってこ
となんだろう。

もっとも、休講の午後もかなりの受講生が自習モードになる
から、必ずしも息抜きにはならないけど……。

でも、ほんの数時間でも休みは休みだ。
田貫市が東京の衛星都市だって言っても、何か特別な用事が
ない限り都内へ行くことはなかったから、東京ってどんなと
ころかなあという興味はある。

その興味に任せてうろうろするほどの余力はないけどね。
時間だけでなくて、お金もかつかつだし。

まあ、ちょこっとだけ雰囲気を味わってこよう。
日曜の新宿ならすっごい賑やかだろうしね。

少しだけでも楽しみがあれば、講義にも集中出来る。
数学、英語、化学と三コマぎっちりこなして、ノートとテキ
ストが書き込みで真っ黒になった。
合宿所に戻ってから、もう一度しっかり目を通しておこう。

それと……明日はカウンセラーの先生に、受験先の大学につ
いてアドバイスをもらおう。
高橋先生は受験指導の専門じゃないみたいだし、やっぱりプ
ロのお勧めを聞いておきたい。

まだまだ不確定要素ばっかりだけど、自分なりに出来ること、
しなければならないことは今のうちにこなしておかないと、
どんどん焦りばっかが膨らんじゃう。
いっぺんには片付かなくても、一歩一歩だ。

十二時半に予備校を出て、JRで新宿駅に向かった。

電車の窓から町並みを見る。
東京ってどこもかしこもコンクリートとアスファルトで蓋さ
れてるみたいなイメージがあったけど、あちこちの道端に濃
いピンクのキョウチクトウがいっぱい咲いているのが見えて、
ちょっとほっとする。

近くで見ると時にどぎつさを感じるキョウチクトウも、都会
の無機的な景色の中では、色が活きてくる。
不思議だよね。

腕時計を確認したら、予想より早く着きそうだ。
一時半じゃなくて、立水が言ったみたいに一時でも間に合っ
たかもね。でも土地勘がないところだから、駅の周辺でうろ
うろするかもしれないし。

駅を出てぶつくさ言いながら歩いてる間に、すぐに待ち合わ
せ場所に着いちゃった。

立水はもう着いてて、展示されているスマホをいじってる。

「よう」

「おう、早く着いたじゃん」

「もうイヤホン買ったの?」

「いや、これからだ。オーディオのコーナーへ付き合ってく
れ」

「おけー」

ってことで、おのぼりさん二人でイヤホンの売り場をごそご
そ歩き回る。

立水が気に入ったものを見つけて購入。二千円なり。
イヤホンていうのは、値段も音もデザインもいろいろなんだ
なあと思ったりして。でも、自分では買わないなあとか。

あっさり買い物が済んでしまった。
こんなんなら、立水一人でも用を足せそうだけどなあ……。

「なあ、立水」

「なんだ?」

「売り場も分かってんだし、一人で来れたんちゃうの?」

「そうなんだけどよ。一人でうろつくと、ヤンキーがぞろぞ
ろ寄ってくんだよ」

「あ! そっちかあ……」

「ったく、うっとうしいったらねえぜ」

そうだろなあ。普段から、近寄ってくるやつぁどいつもぶち
のめすぞみたいなオーラ全開だからなあ……。

「予備校の方はトラブルなし?」

「向こうじゃ、誰も俺なんか見ねえよ」

「それもそうだ。僕も、誰ともノーコンタクトだからなあ」

「まあ、集中出来ていいけどな」

「ははは。あ、飯どうする?」

「めんどくせー。ファストフード系でいい」

「じゃあ、マック行くか」

「おう」

立水もこだわること以外はどうでもいい系だから、こういう
時はすごい楽。
愛想はないけど、変に気を回さなくていい分からっとした付
き合いが出来る。
問題は、こいつがそうそう人に懐かないってことだよなあ。



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ちょっといっぷく その162 [付記]

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

本編再開後、初のいっぷくになりますね。
夏休み合宿編の前半四話を続けてお送りしました。

量としてはそれほど多くないんですが、とても重要な部分な
のでアップした分を振り返っておきたいと思います。


           −=*=−


まず、合宿スタートの第六十九話。
本来ならば、気合い十分で乗り込まなければならないはずの
いっきなんですが、どうもエンジンがかかりきれません。

それでも、住職さんの重光さんはとんでもなく曲者っぽいで
すし、気合いが入りすぎている立水が一緒ですから、合宿の
準備と打ち合わせであっという間に時間が過ぎてしまいます。

そのままの勢いで夏期講習に突っ込めればまだよかったんで
すが、予備校へ下見に行ったいっきは、エンジンのかかりが
悪いことを講師の高橋先生に見破られてしまいました。

予備校の講師は、高校の教師とは全く性質が違います。
受験生を志望大学に合格させるのが予備校の仕事ですから、
成績を下げる要素を徹底的に排除しに行きます。
そこはものすごくドライなんです。

なんのために大学へ進学するのか。
そのもっとも肝心な動機が弱いいっきの不安を、高橋先生は
あっさり一蹴してしまいました。

「そんなの、後で考えればいいじゃん」

まあ……いっきは絶対に聞きたくなかったでしょうね。
でも、それを無視したり反論するだけの強い意志や方針が、
今のいっきには何もないんですよ。

もやもやだけが増幅してしまいました。


第七十話。
夏期講習初日に、いきなり試練です。
講習の雰囲気が、自分の想定よりもずっとゆるい。
厳しい特訓だろうと覚悟してきたのに、中身が予想以上に
あっさりだった。事前のリサーチが甘すぎた。

それは予備校のせいではありません。
進路コース別にカリキュラムが組んでありますから、コース
選択を誤ったいっきのせいです。
ここで、最初からかかりの悪かったエンジンがストールして
(止まって)しまいます。

それがまずいということは、理屈では分かっているんです
が、心がついていきません。
座礁してしまったところを、講師の高橋先生に再びどやされ
ましたね。

悩む暇があったら、理屈ではなく数値目標を掲げてそれをク
リアしろ。べき論、原則論からさっさと遠ざかれ。
初日のどやしはまだマイルドだったんですが、二回目は容赦
ありませんでした。
いっきは、べっこりへこんでしまいます。

これで気合い入りまくりの立水と比較されたら、本当に撃沈
してしまったかもしれません。
しかし住職の重光さんは、いっきだけではなく、立水の心の
歪みも決して見逃してはくれませんでした。

進学の動機が弱いいっきと、動機が歪んでいる立水。
てめえの人生だろ? どう使うかくらいてめえで決めろ!
重光さんのどやしは恐ろしく直球で、いっきにも立水にも逃
げ場が一切ありません。

今まで自分をごまかしごまかし歩んできたいっきは、ここで
原則に立ち返らざるを得なくなります。


           −=*=−


第七十二話。
それでも夏期講習の期間は、悩みをずっと引っ張れるほど長
くはありません。
コストパフォーマンスを上げないことには、本当に時間と金
の無駄遣いに終わってしまいます。
いっきは、やる気の立て直しに着手しました。

重光さんのどやしが直球ならば、高橋先生のサポートは変化
球でした。
本人がすぐ決められないものを無理に目標にすると、かえっ
て効率が下がる。長期目標なしでかまわないから、目の前の
ことだけに集中したら?

高橋先生の論調は、実は最初から何も変わっていないんです
よ。
でも、まだやる気があった最初は先生の言葉に反発を覚えた
のに、重光さんのどやしで心がくじけたあとは同じセリフの
違う側面が見えるんです。

おもしろいですよね。

そしていっきのエンジン再始動のきっかけは、立水が先にリ
スタートしたことでした。

いっきは、本心では自力で立て直したかったでしょう。
でも高校に入ってからの挫折としては、しゃらともめた時以
上に規模が大きかった。ショックがでかすぎたんです。
それが一回きりのヘマではなく、自分の内面の弱さの蓄積か
らくるもの……身から出た錆でしたから。

あいつには負けたくない。
他力本願な反発ではありますが、まずは転んだところから立
ち上がる方が先。強制的に気持ちを切り替えましたね。

そこらへんが、いっきの成長したところかなあと思います。


そして第七十三話。
エンジン再始動に合わせて、自分の思考も切り替え始めた
いっき。
やっとその馬力が活かせるようになってきました。

家出少女による騒動も、もしいっきが一、二年の時ならお節
介に発展したかもしれません。
でも、自分の人生くらい自分で使えという重光さんのどやし
をきっちり実行します。

実際、出足からつまずいて出遅れているいっきは、今それど
ころじゃないですから。


           −=*=−


文量的には比較的コンパクトな四話でしたが、中身はずっし
りシリアスにしたつもりです。

進学で全てが決まるわけではありませんが、ずっと親の庇護
下で育ってきた子供にとっては、初めて自分自身の意思で未
来を選びとろうとする大きなチャレンジになります。
いっきも、その例外ではないということですね。

わたしはその学年の時にどうだったかなと。
往時のことをいろいろ思い出しながら、受験生としての悩み
と苦闘をコンパクトにまとめたつもりです。

ちなみにわたしは、将来の職業につなげるという目標設定型
ではなく、自分の興味あること、おもしろそうなことがあり
そうという観点で進学先を決めました。

いっきではなく、陵大付属の武田くんの発想に近かったです。


           −=*=−


さて。この後再び夏期講習合宿編の後半をお届けします。

前半は迷いや葛藤はありつつも、勉強に集中していたいっき
でしたが、後半には予期しなかったアクシデントが発生しま
す。それを軸に三話続けてお届けしてまいります。


ご意見、ご感想、お気づきの点などございましたら、気軽に
コメントしてくださいませ。

でわでわ。(^^)/




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空に届かぬ 手を伸ばし

空に届けと 目を見張る



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三年生編 第73話(5) [小説]


「ん?」

外が、がやがやと騒がしい。

なにかなーと思って起き上がると、なにやら話をする声。
重光さんの声の他に、僕らが聞いたことのない大人の声が混
じっていた。

ああ、さっきの彼女の親が迎えに来たんだろうな。

僕にくっついてここに来たばかりの時には、死んでも家にな
んか帰るものかと思っていただろうね。
でも蒸し暑くて蚊だらけの上に真っ暗で不気味な講堂は、普
段快適な暮らしをしている彼女にとって、間違いなく地獄だ
よ。
その上空きっ腹抱えて夜を一人で過ごせっていうのは、とて
つもなくしんどかったんだろう。

あっさり白旗を揚げたとみた。

重光さんも、女の子が感情の勢いのまま飛び出したってこと
をよーく分かってて、ちょっとだけ世の中の厳しさを体験さ
せたってことなんだろうな。

彼女は、重光さんの仕打ちをとんでもなくひどいと思うんだ
ろうか?
でも重光さん的には、そんなのどうでもいいんだろう。

ちゃんと現実を見ろい!
彼女に突きつけたのは、それだけなんだろな。

「それにしても暑い……」

来た日も暑くてよく眠れなかったけど、今晩もしんどそうだ。

「おい」

お、今度は立水か。

「なに?」

「おまえ、明日も講習あるのか?」

「午前中だけね」

「同じか。ちょい、新宿に出ようと思うんだが、付き合わん
か?」

めっずらしーっ!
どういう風の吹き回しだ?

でも、ここに来てからずっと気を張り詰めてたから、どっか
で息抜きがしたかったのは確か。渡りに船だ。

「どこ行くんだ?」

「ヨドバシに行きたい。そんなに時間はかかんねえ」

「ふうん。ヨドバシかあ」

「イヤホンが壊れちまったんだよ」

「あ、それは不便だなあ」

「スマホに英語のディクテのプログラムが入ってるからな。
イヤホン使えないと困る」

うわ……音楽じゃないのか。すげえ。

「わあた。付き合うよ」

「助かる。向こうで昼メシ食おうぜ」

「了解。どこで待ち合わす?」

「直接西口のヨドバシに来てくれ。それが一番無駄がねえ」

「そだな。何階?」

「一階のアップルコーナー」

「おけー。時間は?」

「一時に来れるか?」

「一時はちときつい。一時半は?」

「わあた。それでいい」

「じゃあ、そゆことで」

「ああ」

僕がもう一度布団の上に転がろうとしたら、立水がさっき声
がしていた方角をじっと見やっていた。

「立水、どうした?」

「いや、親が迎えに来たんだなあと思ってよ」

「そらそうだろ。まともな親なら必ず来るよ」

「そうか?」

「僕は、とうとう親が迎えに来なかった人を何人も知ってる。
そういう人たちが、そのあとどうなったかもね。そういうの
を見ちゃうとさ」

「ふうん」

親とか家とか。
僕らがあって当たり前だと思っている容器から、こぼされて
しまうこと。それは……本当に不幸だと思う。

でも親や家庭がどんなにしっかりしていても、いずれ僕らは
そこからこぼれる。

離別の時が……刻一刻と近付いてくるのを。その足音を。
僕は……闇の奥から聞きつける。

「じゃあ、おやすみ」

「ああ」




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今日の花:パキスタキス・ルテアPachystachys lutea



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三年生編 第73話(4) [小説]

ちょっと……重光さん。
僕にどうしろと?

ったく……。

女の子は、重光さんに言われたことより親とぶつかった悔し
さの方が心に刺さっているんだろう。
顔を歪めてずっと泣いていた。

しょうがない。このまま放置するわけにもいかないし。

「入って。門閉めるから」

女の子は、這うようにしてのろのろと敷地の中に入った。
施錠して門灯を消し、本堂に歩いていく。
中に入ろうとしたら、立水の声が降ってきた。

「そいつ、どうしたんだ?」

「知らんよー。どっかから付けられてたみたいで」

「おまえが?」

「そ。家出少女みたい」

「重光さんは?」

「今夜は泊めてやるって。身元確認してたみたいだから、親
に無断てことはないんでしょ」

「ふうん……どこに泊まらせるって?」

「講堂で、一人で過ごせってさ」

「!!!」

うん。
重光さんの泊めてやるは、そのまま受け取っちゃいけない。
泊まれるもんなら泊まってみやがれ、なんだ。

講堂は、だだっ広い上に仏像やら仏具やらいっぱい並んでる。
夜はものすごーく不気味だよ。裏はすぐ墓地だしさ。

布団なんかないから、畳の上に直接転がるか、せいぜい座布
団を並べて寝るくらいしか出来ない。
戸を締め切ると地獄のように暑くて、窓を開ければ蚊の大群
に襲われる。
僕らの部屋なら、蚊取りグッズと網戸でほとんど防げるけど
ね。

彼女は、たぶんここに泊まったことを心の底から後悔するだ
ろう。

僕だけじゃない。
立水にも、重光さんの意図は見えたと思う。
それ以上ぐだぐだ言わないで、すぐに引っ込んだ。

僕がこの合宿所のオーナーなら、何か他の方策を考えてあげ
たかもしれない。でも、僕はここの部屋を借りてる身分だ。
重光さんの命令を、僕の判断で無視するわけには行かない。

彼女に講堂とトイレと厨房の位置を教え、すぐに自分の部屋
に引き上げた。
申し訳ないけど、出来るだけ勉強に集中したい。

講堂からは時折泣き声が漏れてたから……まだ気分がささく
れてるんだろうな。落ち着くまではしょうがないか。


           −=*=−


午前零時。そろそろ休もう。
ジャージに着替えて明かりを消し、布団の上に転がる。

細く開けてあった廊下側の扉。
その向こうに人の気配がして……女の子の心細げな声。

「あの……」

なんだー?

「はい?」

「ご飯……ありませんか?」

「さっき重光さんが言ってたよね? ご飯はないって」

「……」

「今日は、僕も門限ぎりぎりに予備校から戻ってきたから、
買い物出来なくて晩飯抜きなんだ」

「え?」

「おやすみ」

「あ……」

きっと立水にも、けんもほろろにあしらわれたに違いない。

あのね、世の中はそんなに甘くないよ。
頼るものがないってオーラ振りまいてたら、寄ってくるの
は親切な人じゃない。狼さ。
そういう怖さを知らないと、自分をどぶに捨てることにな
るよ。

重光さんの提案は、あくまでも不幸のシミュレーション。
降りかかる災難としては、一番軽いんだよ。

それが……この一晩で分かるといいね。




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三年生編 第73話(3) [小説]

駅前。

「この時間に帰ってきたのは初めてだなー」

店がない住宅地に隣接した駅の周辺は、一般家庭の明かりと
街灯しかなくて、路地に入るとすっごく暗い。

家並みの間を通るって言っても、この時間に女の子が歩くの
は怖いかもね。
実際、路地にはほとんど人影がない。
僕の歩く音だけが反響して響いてる。

うちも住宅地の中だから、環境としてはそんなに変わらない
と思うんだけど、傾斜地だと見晴らしがいいんだよね。
それに家と家の間が結構離れてるから、閉塞感がない。
街灯の数はそんなに変わらないはずなのに、全然印象が違う
もんなあ……。

とか。
ぶつくさ言いながら、合宿所の門扉を押し開ける。
重光さんは、ちゃんと鍵を開けてくれていた。

「よかったー……」

ほっとする。

さて、さっさとシャワーを浴びて後半戦に行こう。
そう思って門扉を閉めようとしたら……。

「え?」

渋い。どっかに引っかかっちゃったかなあ。

「どうした?」

背後から重光さんの声がした。

「いえ、今閉めようとしたら、なんか渋くて」

「ふん?」

さっと僕の前に出た重光さんが、力任せに門扉を閉めようと
したその瞬間。

「きゃっ!」

……女の子の声がした。

「は?」

思わず声が出ちゃった。

振り返った重光さんに睨まれる。

「おまえ、誰か連れ込もうとしたのか!?」

「冗談じゃないです! さっきまでずっと予備校の自習室で、
そこから直帰です」

「じゃあ、こいつは誰だ?」

「知りませんよ!」

重光さんが門灯を点けると、門扉の向こうに中学生くらいの
小柄な女の子が這いつくばっていた。

「誰だ、おまえ?」

重光さんの詰問は容赦ない。

「……」

女の子は、俯いたまま何も答えない。

「家出か」

事もなげにそう言った重光さんは、女の子を放り出すのかと
思いきや。

「泊めてやる。その代わり、名前と住所を言え」

「う……」

親が連れ戻しに来るから絶対に言いたくない。
でも、言わないと一晩中何が出るか分からない真っ暗な中を
うろうろしないとならない。

女の子は、しばらく迷ってたけど。
諦めたように答えた。

「菅野由香。三田花町○の5」

「工藤。見張ってろ」

「あ、はい……」

さっと引っ込んだ重光さんは、交番かどこかに電話したんだ
ろう。女の子の言ったのが嘘でないかどうかを確かめたみた
いだ。

「親とケンカして家出か」

「……」

図星みたいだ。

「今夜は泊めてやる。ただし、講堂で一人で寝ろ。飯はない。
水だけで我慢しろ。明日は朝五時起床だ。掃除と勤行は工藤
と同じだ」

それだけ言い捨てて、さっと母屋に引っ込んでしまった。





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