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三年生編 第75話(2) [小説]

「現役でなくなっても、全然変わらないや。すごいなー」

「おい。工藤」

お、立水か。

「おはよー。なに?」

「あのおっさん、プロか?」

昨日の矢野さんの鮮やかな身のこなしを見て、興味を持った
んだろう。立水がぐいっと首を突っ込んできた。

「プロ、だった」

「引退したのか?」

「去年ね。ウエルター級のトップランカーだった人だよ」

「すげえな……」

「すごいわ。引退しても、現役と同じトレーニングを欠かし
てない」

「ふうん」

「人に教えるのもうまいし、根性論押し付けるようなところ
はこれっぽっちもない。理詰めで、しかもちゃんとお手本を
見せてくれる」

「なるほどな」

「心技体がきちんと鍛え上げられると、人間てあそこまで
シャープになるんだなあって感じ」

「一緒にいた女の方は?」

「僕らより少し上の女子大生」

「全然しゃべらねえし、無愛想だな」

「あっちは論外さ」

「へ!? おまえ、知ってんの?」

「去年、バイト先でずーっと絡まれて、ひどいめにあったん
だ」

「絡まれただあ?」

「そ。ひどかったんだよ」

論外だったよな。
エゴの塊って人は、他にも見たことあるけどさ。
あれくらい自分のわがまま勝手で動いてて、それなのに、自
分がない。自我が、腐ってる以前だもん。

「実の親まで匙を投げてたコミュ障のわがまま女。人の気持
ちなんかこれっぽっちも考えない。そんなだから、誰にも相
手してもらえなくて、寂しくてしょうがない」

「それで、絡むってか?」

「そう。一方的に非常識なちょっかいを出し続けるんだ。徹
底して無視してたんだけどさ」

「ふうん……」

「リョウさんはきちんと自分を研いで磨いてるけど、あいつ
は自分を棚に上げて、人を削ろうとするんだよ」

「なんだそりゃ。迷惑なやつだな」

「おまえならすぐにキレるだろ。僕ですらキレそうになった
からね」

「で?」

「とうとう親から干されたんだよ。そしたら、自殺未遂」

立水が、その場にしゃがみ込んだ。

「ガキかよ……」

「まあねー。発見者は僕としゃらだったんだけど、ジョグの
途中だった矢野さんが、救命措置を手伝ってくれたんだ」

「うわ……すげえ」

「そこから、根性鍛え直すって言ってマンツーマンで指導し
てんの」

「直るのか?」

「分からん。でも、雰囲気はがらっと変わったかな」

「へー」

そう。どうしようもなく弱かった自我の部分。
まだまだ足りないんだろうけど、そこをなんとかしようって
いう意識が僕らにも感じ取れるようになった。

わがままに振る舞うんなら、先に、本当にわがままになれよ。
矢野さんが、そこをがっつり仕込んだんだと思う。

「まず自分を研げるようにしてから、人との関わり方を考え
ろ。きちんと鍛えて弱い自我をましにしろ。矢野さんの指導
はそれだけだと思う」

「ふうん」

「それは、彼女だけのことじゃないよ。僕らも同じだ」

「ああ。そうだな」

ぐんと立ち上がった立水が、竹刀を持ったような格好で、両
腕を鋭く振り下ろした。

目の前には誰もいない。
でも立水の目には、まだ倒せていない未成熟の自分がはっき
り見えているんだろう。

「ちぇすとーっ!!」


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三年生編 第75話(1) [小説]

8月3日(月曜日)

「よ……っと」

さすがに、一週間経つと早起きにも慣れる。
目覚ましが鳴る前にさっさと起きて床を上げ、顔を洗って、
掃除の準備をする。

「おはようございます」

「おう」

重光さんは、僕らをどやすネタがなくてつまらなそうだ。

今まで朝のお勤めは三人だったけど、今朝は二人多い。
掃除はあっという間に終わった。

それにしても……。

矢野さんは昨日と何も変わっていないのに、悪魔の顔はぱん
ぱんに腫れ上がって、人相が変わっていた。
相当蚊に刺されたんだろう。

洗面所で顔を洗う時、矢野さんに昨夜の様子を聞いてみた。

「矢野さん」

「うん?」

「だいぶ刺されたんですか?」

「あいつはな。そこがまだ甘いんだよ。さっき、講堂の畳の
上を見たろ?」

「……すさまじかったです。何匹退治したのか分からないく
らいに、こんもり……」

「そっちが俺の方だ。俺は、自分のディフェンスゾーンの中
には絶対に連中を入れさせねえ」

ディフェンスゾーン……か。

「けどな。さやは、連中がそのゾーンに入ってからでないと
気配に気付けないんだ」

「あ……そうか」

「そう。一匹ならまだ対処出来るが、いっぱい飛び回ってる
状況じゃあ、退治が間に合わないのさ」

「げえー」

「これで、気配を一早く察知する重要性が分かっただろ」

「そっか。早く気付けば、相手のパンチに力が入る前にかわ
したり、先手を打つことが出来るってことか……」

「そうだ。ディフェンスは、攻撃をかわすことと威力を削ぐ
ことのセットさ。どっちも、相手の攻撃を読まないとうまく
行かねえんだ」

「そうですよね……」

「問題は、ディフェンスだけじゃねえよ。オフェンスが良け
れば、あそこまでひどくはやられない」

「どういうことすか?」

「俺は前に、ボクシングはジャブに始まりジャブに終わるっ
て言ったろ?」

「はい。よーく覚えてます」

「蚊を相手にするのに、ごついパンチは要らない。いかに軽
打で仕留めるか。そして、ディフェンスを乱さずに攻撃を出
し続けることが出来るか」

「うわ! そっかあ!」

「だろ? 相手の攻撃に対してぴりぴり神経を張り詰め続け
てると、一番強い気配しか探れなくなる。攻撃も単調になっ
て、仕留める精度が下がる」

す、すげえ。

「余計な力を抜くことで感じられる気配や、出来る動きがあ
んのさ。そいつは、こうやって実体験してみないと分かんね
えんだ」

僕に説明しながらも、矢野さんは軽くジャブを出し続けてる。
それはシャドウじゃない。寄ってくる蚊をちゃんと仕留めて
る。すげえ……。

「相手がたかが蚊だと言っても、それをきちんと撃退するに
は、自分の持ってる技術と精神力をうまく組み合わせてコン
トロールしないとならんのさ」

はあ……。
思わず溜息が漏れてしまった。

「鍛えるって……奥が深いんですね」

「まあな。蚊にも勝てねえんじゃ、人間相手ならもっと勝て
ねえよ。べっこりへこんでるだろ?」

そう言って、矢野さんが悪魔を指差した。
備えていたはずなのに蚊に刺されまくった自分が情けないん
だろう。悪魔の表情には、昨日のような冴えがなかった。

「どう立て直すんですかね?」

「鍛えるしかねえよ。それが、じいさんの言った研ぐってこ
とだ。そいつぁ技術だけじゃ埋まんねえ。足りない分をどう
補うか、自力で考えろってことだ」

「なるほど……」

「俺たちのトレーニングは、それの繰り返しだよ。特効薬は
ねえけど、無駄もねえのさ。どうやって自分の欠点潰すか。
やり方工夫して、ひたすら練習するしかねえ」

「僕らの勉強も同じですね」

「ははは。そうだな。まあがんばってくれ。俺らはこれから
帰る」

「久しぶりに会えて嬉しかったです」

「おう。またジムに遊びに来いや」

「そうですね。落ち着いたら」

「じゃあ、またな」

「お疲れ様でしたー」

悪魔を伴って重光さんに挨拶した矢野さんは、何かを説明し
ながら駅への道を歩いて行った。



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