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三年生編 第74話(11) [小説]

自分の部屋に戻って、半日の出来事を振り返る。

幸運と不運。
嬉しい再会と、嬉しくない再会。
一昨年や去年なら、出来事は全て僕の中のどこかに位置付け
られただろう。

ヤンキーとの鉢合わせも、矢野さんたちとばったり出会った
ことも、まるでそれが運命のように感じたかもしれない。

でも。

人がいっぱい集まって往来が激しい新宿なら、予備校のある
ところよりも誰かとばったり出会う確率は高いんだ。
偶然が重なることは起こりうる。

そして僕は、偶然がなぜ起こったかよりも、その時に自分が
どうするかを考えないとだめなんだ。
そこが……僕と矢野さんの大きな差になってる。

矢野さんは、チャンスを絶対に無駄にしない。

まだ悪魔には足らない前に出る勇気。その重要性をちゃんと
実地で見せ、この寺での修行にも食いついた。
もし矢野さんが悪魔抜きで単独で通りかかったら、余計な騒
動には首を突っ込まなかったかもしれない。

関わるかスルーするかをきちんと判断して、実行に移す。
そういう矢野さんの資質が、僕にはまだ備わってない。

悪魔のこともさゆりんのことも、僕が何か出来るわけでも、
何かしなければならないわけでもない。
悪魔は矢野さんが、さゆりんは信高おじちゃんが、これから
しっかり面倒を見るんだろう。
結末がどうなるかは気になるけど……それがどんな風に転ん
でも、僕の中にはとても組み込めそうにないんだ。

それなのに、どうしても心のどこかに人のことがへばりつい
てしまう。

「……。そうか」

重光さんがさっき言った『研ぐ』という言葉。
聞いた時から、ずっと気になってたんだ。
それには、きっと二つの意味があるんだと思う。

一つは、しっかり磨いて自分が曇らないようにすること。
それが表向きの意味。

もう一つは……。
研いで、自分にとっての不純物を削り落とすことなんじゃな
いかな。

自分にとって大事なこと、役に立ちそうなものに思えても、
本当にそうなのかをきちんと検証し、取捨選択しないとなら
ない。
それが自分のことだけで済まない場合は、とてもシビアな作
業になる。だから……切り落とすじゃなくて、研ぐなんだ。

自分の血肉にしなければならないものか、結果として自分を
損なうものかを慎重に見極めて、整理する。
それは僕がずーっと意識してきたことだったのに、全然実行
出来てない。全く研げて……ないんだ。
重光さんの目には、怠け癖のある僕の赤錆が丸見えなんだろ
う。

両手のひらを目の前に出して開く。
掴むことも、放ることも出来る手。

じゃあ、僕はこの手をどう使う?

健ちゃんたちに手助けが必要なら、労を惜しみたくない。
僕らがしんどい時には、本当に助けてもらったから。
でも、助力の方法とタイミングはしっかり考えないとならな
い。それが……研ぐってことなんだろう。

きちんと研げてないから、僕は弓削さんのケアを伯母さんに
丸投げするはめになっちゃった。
ああいう苦い思いは……もうしたくない。

人のことより、まず自分をもっとましにしないと。
悪魔のことなんか偉そうにああだこうだ言えないよ。

「ん……」

これから。
僕の周りが急激に変わっていく。
それは、僕自身が変わろうと変わるまいと、必ずそうなる。

大学入試を受験し、高校生活を終えたら家を出る。
そしてしゃらとの関係もこれからの僕らの歩みも、新しい生
活に合わせて変えて行かざるを得ない。
具体的に、それをどうするか。

黙っていても、人と人との繋がりは……変わってしまう。

それなら、僕は変わったことに後悔を残したくない。
矢野さんが警告したみたいに、変えられてしまった自分に文
句を言いながら過ごしたくない。

だから自分で決断を。そう言うのは簡単だ。
でも、その決断という字が全ての厳しさを物語ってる。
決めて、断つ、なんだよね。

断つ勇気は、自分が曇っていたら出てこない。

「だから研がないと……か」

今自分の中にあるもの、所持しているもの、関わっているこ
と、興味があること。
そのどれを自分の生き方に組み込み、残りを断ち切るか。
うまく行くかどうかは……自分の研ぎ方にかかってくる。

それに。
中まで真っ赤に錆びてたら、そもそも研ぐ意味なんかないよ
な。

錆びの赤。矢野さんの手の中で潰れた蚊の血の赤。
それらは、キョウチクトウの赤い花と重なって見えた。
赤は生命や活力をイメージさせて、夏に似合う元気な色だと
思うけど……警告の色でもある。

命に関わる猛毒を持っているキョウチクトウ。
毒のことを知っているのなら、花がどんなに美しくてもそれ
は飲み込めない。

そして、もっとも危険な毒は人にあるんじゃなく、自分の中
にある。
それを……しっかり研いで落とさないとならないんだろう。

ノートの端っこに『とぐ』と書いていて、ふと気付いた。
『どく』と『とぐ』。『毒』と『研ぐ』。
濁点をたった一か所動かすだけのことに、僕らはどれほど多
くのエネルギーを割くんだろう……と。

「さて」

ごそごそとカバンを開けてノートを出し、今日の午前中に受
講した講義の復習を始めた。

「まず。人のことよりも、僕自身のことだよね。今、何をす
るためにここにいるのか」

そうさ。これは間違いなく修行だ。
修行は実らせないと、かけた労力が全部無駄になる。
冗談じゃない!

一番簡単に、すぐに研げるのは筆記具さ。
それをどれだけきちんと研げたかで僕の運命が変わるなら、
妥協はしたくない。

一切、ね。

がりがりがりがりがり……。
がりがりがりがりがり……。




kyochikt.jpg
今日の花:キョウチクトウNerium oleander




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