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三年生編 第74話(10) [小説]

いろいろあったけど、いつもの時間よりむしろ早くに合宿所
に戻れた。

「重光さーん」

母屋の玄関で声をかけたら、重光さんがのっそり出てきた。

ぎょろっ!
矢野さんと悪魔を交互に見て、重光さんがにやっと笑った。

おおっ! 初めて笑ったのを見たぞー。

「ふふふ。解脱者と修行僧か」

う……わ。

「うちのやり方ぁ、工藤から聞いてるんだろ?」

「伺ってます」

矢野さんが丁寧に答える。

「俺がわけえ頃には、体育会系の連中の合宿も受け入れてた
んさ。今は俺が面倒見れねえから断ってっけどな。一日二日
なら、どうってことはねえ。しっかり鍛えてってくれ」

「世話ンなります」

「そっちの姉ちゃんは、まだ始めたばかりか?」

悪魔は声に出さず、ただ頷いた。

「しっかり鍛えろ。いいか? 健全な精神は健全な肉体に宿
るって言うだろ?」

「……ええ」

「逆だ。性根がねじ曲がってるやつぁ、どんなに身体を鍛え
てもクソの役にも立たん。少しでいい。自分を研いで行け」

そう言い捨てた重光さんは、矢野さんが差し出した千円札を
さっと引ったくってすぐ母屋に消えた。

その後ろ姿をじっと見ていた矢野さんが、感心してる。

「すげえ坊主だな」

「はい。なんか……人を見抜く力が」

「ああ、工藤さんもやられたか」

「ええ。僕が迷ってるのをすぐ見抜かれて、目一杯どやされ
ました」

「それだけ人の生き様をいろいろ見てるってことだろ。俺に
はとても出来ねえ商売だよ」

「そうなんですか?」

「自分一人でも持て余してんのによ」

「うう、僕もそっか」

「まあ、しっかり修行させてもらうさ」

「あの、矢野さん。具体的にどんなことをするんですか?」

「ははは。単純なことだ」

「へー」

矢野さんは、くるっと悪魔の方を向くと真顔で説明を始めた。

「いいか? ここの講堂を借りて、一晩過ごす。今日は比較
的涼しいから、立ててある戸を開ければそんなに暑くはねえ」

「はい」

「でもな、裏が墓だ。恐ろしく蚊が多いんだよ」

「そうなんですよねえ。網戸と殺虫剤が必須」

「そんなもん使ったんじゃ、修行にならん」

「え!?」

僕と悪魔が同時に声を上げた。

「怖い相手が人なら分かる。でも、蚊は怖くねえだろ?」

「あ。はい」

「連中は、おまえの生き血をすすりに来る敵だ! 近付く気
配を察知して、殺られる前に残らず殲滅しろ!」

そう来たかっ!

「いいか? 雑魚キャラでも数が居れば甘くねえ敵だ。おま
えが隙を見せれば、一晩でひでえ顔になるぜ」

にやっ。
矢野さんが、不敵に笑った。

当然悪魔だけでなくて、矢野さんも同じトレーニングをする
んだろう。それなら悪魔に逃げ場所はない。戦うしかない。
すげえ……。

くるっと僕の方を向いた矢野さんが、笑みを消して補足した。

「香港じゃあ、ヤクザが敵を拷問する手段に、裸に剥いたや
つを蚊だらけのところに野ざらしにするってのがあるんだっ
てよ。ここも大して変わんねえさ」

「ううう、想像するだけで痒く……」

ひゅっ! ひゅっ!

ジャブを飛ばした矢野さんがその拳を開くと、そこにはもう
血を吸った蚊が……。

「げ! いつの間に」

「微弱な気配を察知するには、蚊ってのはいい相手なんだよ。
弱くても羽音はする。そいつぁパンチ出された時の風切り音
と一緒さ」

「なるほどー」

「その気配をどこまで素早く察知するかで、攻撃を食らうか、
回避出来るかの線が決まる。一晩で、出来る限り感覚を研ぎ
澄ませろ」

げんなりっていう顔だったけど、悪魔は頷いた。

「分かりました」




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三年生編 第74話(9) [小説]

「因果なものだな」

「はい?」

「俺もさやのことは言えねえさ。家なんてもなあ、ずっとそ
のままあると思っててね」

「そうなんですか?」

「ああ。王座戦とお袋の危篤が重なった時に、試合を蹴る踏
ん切りが付かんかったんだ」

「げ! 試合、出たんですか?」

「出た。それが……拳を怪我する結果になったやつだよ」

「あっ!!」

思わず立ち上がっていた。

「それ……」

「そう。俺は平常心を保てなかった。早くけりをつけて病院
に行きたくてな。力任せの接近戦を挑んで、勝つには勝った
が最低の試合をした」

「間に合ったんですか?」

ぽつんと。
矢野さんがこぼした。

「いや。間に合わんかった」

いつも徹底的に平常心を保っている矢野さんが、すうっと俯
いた。

「それ以来、親父には縁を切られてんだよ。おまえなんざ、
もう子供でもなんでもねえってな」

う。

「結婚も結局失敗してる。俺は……どうも人付き合いがうま
く行かねえな。糸井のおやっさんも放り投げちまったしよ」

そうか。

「それでも、諦めたくはねえ。自分に恥じない生き方をして
いれば、ハンデの分はいつか取り戻せる。俺は、ずっとそう
思ってる」

「そうですね」

ふっ。
僕は、こっちに出てきてからずっと胸に溜まっていたもやも
やを一気に吐き捨てた。

「さっき矢野さんが校倉さんに言ったこと。あれはそのまま
僕にも刺さります」

「うん? 精神が弱いってやつか?」

「はい。僕も……やっぱ弱いですよ。全然自分には勝ててな
い」

「そうか?」

「ええ。だから自分に足りない分だけ、どうしても自分の
キャパ以上のものを受け入れようとしちゃう。受け入れられ
るように、自分の容れ物をでかくするのも大事だけど」

「うん」

「自分には出来ない、無理だって言って拒否する。飲み込め
ないものは、きちんと吐き出す。そういう意思を、きっぱり
人に示す勇気がもっと必要なんだろうなと」

「出来てるように思ってたけどな」

「敵意は押し返せるんです。でも、厚意とか助力を結局受け
入れちゃう。飲み込んじゃう。それは……なあと」

「どっかで、寄っ掛かってる感じがするか?」

「しますね。自分ではそう思いたくないけど。でも……」

「なるほどな」

うんうんと矢野さんが頷いた。

「きちんと自分でけりを付けていかないと、全部中途半端に
なっちゃう。進路もそう」

「迷ってんのか?」

「迷ってます。でもこっちに来て、徐々にイメージが固まっ
てきました。最後は……」

自分の拳同士を、がちんとぶつけ合わせた。

「自分で決めます」

「そうだな。俺みたいに後悔しないようにな」

「はい!」

「じゃあ、行くか」

「案内しますね」

「頼む。さや、行くぞ」

「はい」





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