SSブログ

三年生編 第75話(1) [小説]

8月3日(月曜日)

「よ……っと」

さすがに、一週間経つと早起きにも慣れる。
目覚ましが鳴る前にさっさと起きて床を上げ、顔を洗って、
掃除の準備をする。

「おはようございます」

「おう」

重光さんは、僕らをどやすネタがなくてつまらなそうだ。

今まで朝のお勤めは三人だったけど、今朝は二人多い。
掃除はあっという間に終わった。

それにしても……。

矢野さんは昨日と何も変わっていないのに、悪魔の顔はぱん
ぱんに腫れ上がって、人相が変わっていた。
相当蚊に刺されたんだろう。

洗面所で顔を洗う時、矢野さんに昨夜の様子を聞いてみた。

「矢野さん」

「うん?」

「だいぶ刺されたんですか?」

「あいつはな。そこがまだ甘いんだよ。さっき、講堂の畳の
上を見たろ?」

「……すさまじかったです。何匹退治したのか分からないく
らいに、こんもり……」

「そっちが俺の方だ。俺は、自分のディフェンスゾーンの中
には絶対に連中を入れさせねえ」

ディフェンスゾーン……か。

「けどな。さやは、連中がそのゾーンに入ってからでないと
気配に気付けないんだ」

「あ……そうか」

「そう。一匹ならまだ対処出来るが、いっぱい飛び回ってる
状況じゃあ、退治が間に合わないのさ」

「げえー」

「これで、気配を一早く察知する重要性が分かっただろ」

「そっか。早く気付けば、相手のパンチに力が入る前にかわ
したり、先手を打つことが出来るってことか……」

「そうだ。ディフェンスは、攻撃をかわすことと威力を削ぐ
ことのセットさ。どっちも、相手の攻撃を読まないとうまく
行かねえんだ」

「そうですよね……」

「問題は、ディフェンスだけじゃねえよ。オフェンスが良け
れば、あそこまでひどくはやられない」

「どういうことすか?」

「俺は前に、ボクシングはジャブに始まりジャブに終わるっ
て言ったろ?」

「はい。よーく覚えてます」

「蚊を相手にするのに、ごついパンチは要らない。いかに軽
打で仕留めるか。そして、ディフェンスを乱さずに攻撃を出
し続けることが出来るか」

「うわ! そっかあ!」

「だろ? 相手の攻撃に対してぴりぴり神経を張り詰め続け
てると、一番強い気配しか探れなくなる。攻撃も単調になっ
て、仕留める精度が下がる」

す、すげえ。

「余計な力を抜くことで感じられる気配や、出来る動きがあ
んのさ。そいつは、こうやって実体験してみないと分かんね
えんだ」

僕に説明しながらも、矢野さんは軽くジャブを出し続けてる。
それはシャドウじゃない。寄ってくる蚊をちゃんと仕留めて
る。すげえ……。

「相手がたかが蚊だと言っても、それをきちんと撃退するに
は、自分の持ってる技術と精神力をうまく組み合わせてコン
トロールしないとならんのさ」

はあ……。
思わず溜息が漏れてしまった。

「鍛えるって……奥が深いんですね」

「まあな。蚊にも勝てねえんじゃ、人間相手ならもっと勝て
ねえよ。べっこりへこんでるだろ?」

そう言って、矢野さんが悪魔を指差した。
備えていたはずなのに蚊に刺されまくった自分が情けないん
だろう。悪魔の表情には、昨日のような冴えがなかった。

「どう立て直すんですかね?」

「鍛えるしかねえよ。それが、じいさんの言った研ぐってこ
とだ。そいつぁ技術だけじゃ埋まんねえ。足りない分をどう
補うか、自力で考えろってことだ」

「なるほど……」

「俺たちのトレーニングは、それの繰り返しだよ。特効薬は
ねえけど、無駄もねえのさ。どうやって自分の欠点潰すか。
やり方工夫して、ひたすら練習するしかねえ」

「僕らの勉強も同じですね」

「ははは。そうだな。まあがんばってくれ。俺らはこれから
帰る」

「久しぶりに会えて嬉しかったです」

「おう。またジムに遊びに来いや」

「そうですね。落ち着いたら」

「じゃあ、またな」

「お疲れ様でしたー」

悪魔を伴って重光さんに挨拶した矢野さんは、何かを説明し
ながら駅への道を歩いて行った。



共通テーマ:趣味・カルチャー