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三年生編 第72話(2) [小説]

「ふうっ」

僕が漏らした溜息に苦笑した高橋先生が、隣の空き席にすと
んと腰を落とした。
僕の目の前でひょいひょいと指を振る。

「前も言ったけど、受験もその先の大学生活も、君にとって
は通過点に過ぎないよ」

「はい」

「どうせ通過点なら、面倒なことなしでするっと通ってしま
いたい。そういう考え方もあるし、僕はそれは全否定しない
よ」

「……はい」

「でもね。それだって、人生の八十数回の繰り返しの一部
さ。僕なら、無駄にするのはもったいないなーと考える。通
過がしんどくても、楽でもね」

すごいなあ。
そう考えるのか。

重光さんが自分を一切排して僕らをどやすのに対して、高橋
先生は自分を目印にして見せる。
そのどっちがいい悪いじゃない。それぞれの生き方、やり方
なんだ。

じゃあ、僕は?

「んー」

かえって迷いが深くなっちゃった。

「ははは。なかなか割り切れないみたいだね」

「はい。ふうっ……」

「まあ、それを君の売りにしたらいいんちゃうの?」

「割り切れないのを、ですか?」

「そ。割り切れないってのは、妥協しない、こだわるってこ
とさ。それは確かに無駄が多いよ」

「はい」

「でも、こだわらないと見えてこないもの、ゲット出来ない
ものがあるんでしょ。それは君にしか意味がない」

うん。ぴったり、だ。

「結果じゃなく、こだわったことに意味があれば。それが全
部無駄にならなければ。それでいいんちゃうの?」

「そうかあ」

「受験対策のプロとしては、この前言ったみたいに効率化の
ために割り切れとしか言えないよ。でも、それはあくまでも
テクニカルな話さ。それが全部を解決出来るわけじゃない。
最後は、君自身でやり方を選択するしかないんだよね」

「そうですね」


           −=*=−


迷いが連れてくるもの。
そんなん、ろくなもんじゃない。
だって、自分がよわよわだから迷うんだもの。

先が全然見えないこととか。見たくないって思ってしまうこ
ととか。
しゃらとのこれからはどうなるんだろうっていう不安とか。
家族との繋がりが変わってしまう不安とか。
肝心な時に、自分をちゃんと主張して押し通せるんだろう
かっていう不安とか。

これまで、自分できちんとこなせてたと思ってたこと。
そのベースは、実は何も入ってないすっかすかの空箱だった
んじゃないだろうか?

……とてつもなく大きな不安感。

それをどうしても直視したくないから、ホームシックにかこ
つける。家に逃げ込む自分をイメージしちゃう。

「ふう……」

ちっともはかどらない勉強。
全部ぶん投げて家に帰ることも、割り切って勉強ロボットに
なることも出来ずに、ぶすぶすぶすぶすくすぶってる。

火がついてばあっと燃えるでもなく。
しゅんと消えてしまうでもなく。
ぶすぶす、ぶすぶすと、変な色と臭いの煙を振りまいて。
その煙で、自分自身がむせてる。

こんな自分は嫌だなあと思いつつ。
何一つすっきりしないうちに時間だけが過ぎる。

……過ぎていく。

ずっと拳を置いていた机の上が汗でじっとり湿って。
その不快感で我に返った。

「飯にするかな」

手や頭を動かそうが、黙ってぼけっとしてようが、容赦なく
お腹だけは空く。

「ちぇ。たりー」


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三年生編 第72話(1) [小説]

7月31日(金曜日)

立水は、重光さんにどやされてすぐ新幹線で仙台に行き、翌
日の昼に戻ってきた。

向こうで何があったのか知らないけど、戻ってからの立水の
決断は早かった。
重光さんに合宿を切り上げることを告げたんだろう。
さっと荷物をまとめ、僕には何も言わずに撤退した。

あいつが最後まで何も言わなかったこと。
それが意地なのか、重光さんや家族の指示なのか、気分の問
題なのか、それは僕には分からない。

だけど。
事実として、合宿所にいるのは僕だけになった。
それが……どうしようもなく辛かった。

それって、やっぱホームシックなんだろうか?
でも、立水が退去した直後からずっと苛まされた無力感や底
抜けの寂しさは、中学の時の疎外感とは桁が違った。

そうさ。中学の時は、僕に逃げ場があったんだ。
『家』っていう逃げ場が。

あれだけ四面楚歌の状況で僕が潰れなかったのは、最後に家
に逃げ込めるっていう安心感がどこかにあったから。
僕は、理不尽な暴力や価値観の押し付けには絶対に負けたく
なかったけど、それを自力で押し返せなくても、家が最後の
砦になるってことだけは疑ってなかった。

でも、僕はいずれ家を出る。
そこは、僕が逃げ込んで隠れるにはもう小さすぎる。
もう狭すぎるんだ。

自分の将来に対する備えの甘さだけじゃない。
自分の現状認識についても……いい加減もいいとこ。
それなのに、りんやばんこに偉そうなことを言ってた自分に
吐き気がする。
もしりんやばんこに、あんたも家を失ってみろって言われた
ら……返す言葉がない。

たかだか二週間の独立仮免許。
それすらまともにこなせていない自分のひ弱さに……がっく
りくる。

重光さんが、遅くに帰ってくるなら必ず連絡を入れろと言っ
たこと。
それは、合宿所が暑すぎて帰りたくないからじゃない。
寂しさだけしかないところに居たくなくなるから……だった
んだ。

もちろん、予備校で講義を受けている間、学生はみんな講義
に集中してて無駄話はしてない。
人と人との交流があるわけじゃないんだ。
それでも、少なくともそこには『人の気配』がある。

合宿所にはそれがないんだ。
本当に、独りきり。

どこにも……逃げ場所、隠れ場所がない。


           −=*=−


「どう?」

数学の講義が終わって、席でぼんやりしていたところに乾い
た声が降ってきた。

「あ、高橋先生」

「巻き返せた?」

夏期講習で、初めて人とまともに話した気がする。
ほっとすると同時に、へたれな自分に対するどうしようもな
いがっかり感がどっと押し寄せてきた。

「いいえー……ちょっとへこんでます」

本当は……ちょっとじゃない。べっこりだ。

「ふうん。レベルの問題?」

「いえ。自信喪失……かな」

「あらら」

「なんか自分て、こんなに弱かったんかなあと思って」

「そりゃあしゃあないさ」

「え? そうなんですか?」

「しっかりしてると自分で思い込んでる子の方が怖いよ」

「ん……」

「言っちゃ悪いけど、君らはまだ純粋培養中だよ。培養器の
中しか知らない」

ううう。
まさにその通りだ。がっくり。
でも、先生は僕のようなへたれの学生の扱いは慣れてるんだ
ろう。
特別気を使うとかバカにするとか、そういう感じは全くな
かった。

「自分の今のステータスをきちんと認識していれば、冷静に
自分の実力を見て課題をこなせしていける。今の時点では、
中途半端なのが当たり前なんだからさ」

「……はい」

「こなせる、大丈夫だと思えちゃうのは負荷にならない。油
断になっても、自信には繋がらないよ」

うわ、そう考えるのか。

「推進力にするなら、歯が立たない、しんどいと思うところ
まで自分を下げないとね。全てはそこからさ」

なるほど。
高橋先生の考え方は、ゴールまで脇目も振らずに必死に走れ
じゃないんだよな。
今足らない分を解析して、スマートに補ったらいい。
そんな感じで、すごく乾いてる。

それにほっとしている自分と、それじゃあ僕の穴は埋まんな
いってがっかりしている自分。
それが並立しちゃったままなのが、僕のでっかい欠点なんだ
ろう。



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