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三年生編 第107話(8) [小説]

夕方、安堵と疲れを顔に浮かべて、実生が帰って来た。

「うまくいった?」

「うん。なんとか引き受けてくれた」

「喜んで、ではないわけね」

「最初にどじっちゃったから」

「どじった……か」

実生が主たる交渉者だろう。
いくらプレッシャーがかかってるって言っても、慎重な実
生が、失礼なことを言うわけはない。
実生たちの言動に問題があったわけじゃなくて、松田さん
の方から投げかけられた疑問や質問に実生たちがきちんと
答えられなかった……そういうことじゃないかと思う。

「お兄ちゃん、何かわかるの?」

「わかるわけないだろ。テレパシー使える宇宙人じゃない
んだから。ただ」

「うん」

「松田さんの性格なら、どうしてわたしなのってところを
しっかり説明してほしいと思うはず」

「うん。やっぱり」

「そこが浅かったんだろ?」

「そう。菊田さんからの紹介を受けてってことだけじゃ……」

「そらあ、論外だよ」

思わず顔をしかめた。

「備えが甘いなあ。でも、それも経験だからね」

「最初からちゃんと教えてくれればいいのに」

ぶーっと実生がむくれた。

「教えないよ。そういうのは、失敗したことでしか心に刻
めない。うまく行ったことなんかすぐ忘れるよ」

「むー」

不服そうな実生に、宿題を出す。

「なあ、実生」

「うん?」

「松田さんの試験は、本番が終わるまでずっと続くんだ。
実生たちはずっと評価されてるのさ。依頼を引き受けてく
れたのは、単なる試験の始まり。甘く見るなよ」

「うう。なんかしんどい」

こういう苦労は今日一日でいいと思ってたんだろ。
実生が、ぐったりしおれた。

「何言ってんだよ。社会に出たら毎日そうだろ。その人を
信頼できるか。自分を信頼してもらえるか。誰からも試さ
れ、自分も人を試す。そんなの当たり前だと思うけど」

これまで友達との人間関係調整に苦労してきた実生は、自
分を切り詰めることで軋轢を減らしてきた。
でもこれからは、それじゃあ保たない。

自分と他人との距離を上手に調整すること。
今回みたいな機会を無駄にしないで、しっかり練習してほ
しいなと思う。

「まあ、ともかくお疲れさん。一山超えたな」

「わたしの方は……。黒田先輩はどうだったのかな?」

「リョウさんが直接来た。引き受けたって言ってたよ」

「わ! よかったー!」

「これで、安心して本番に臨めるな」

「うん!」

大役を果たしてほっとしたんだろう。
立ち上がった実生が両手を突き上げ、ぐいっと伸びをした。

「はああ。お腹空いたー」



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今日の花:ムラサキツユクサTradescantia × andersoniana


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