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三年生編 第86話(8) [小説]

椅子からひょいと立ち上がった母さんが、俯いてるさゆり
ちゃんの前まで行って、両手でぐいっと肩を掴んだ。

「顔を上げなさい。さゆりちゃんの欲しいものは、床に落ち
てないよ」

「……」

「親から言ってもらえないなら、代わりに言ったげる。いつ
までも甘えてんじゃないっ!」

母さんが、ものすごい形相で凄んだ。

「あんたは、本当の地獄を知らない。そんなの、一生知らな
いで済むならその方がいい」

ごくっ。
健ちゃんとさゆりちゃんが生唾を飲み込む音が聞こえた。

「悪いけど、わたしも父さんもいっちゃんにすら想像出来な
い地獄を見てるの。だって、あんたたちにはずっと親がいる
でしょ?」

そう。そうなんだよね。

「今あるのが当たり前だと思わないことね。さゆりちゃん。
親元から出て、それが分かったでしょ?」

こそっと。さゆりちゃんがうなずいた。

「そんならいいわ。それだけでいい。その経験をこれから活
かしたらいいでしょ? 勝手に腐るんじゃなしに」

にっ。
母さんが不敵に笑う。

「あのね、さゆりちゃん。あんたがどうするかとは関係なし
に、あんたは年取るの。ハタチ過ぎたら成人。もう親の出番
はないよ。その先までずっと親に口出しさせるの? わたし
なら絶対にやだなあ、そんなの」

「う……」

「信(のぶ)さんに反発すんなら、ちゃんと意地通しなさい
よ。このどヘタレが!」

ぐわ……。母さん大爆発。
健ちゃん、口あんぐり。
さゆりちゃん、べそべそ。

あーあ。
母さんがブレーキかけずに爆弾投げてどうすんだよ。

「まあまあ、母さん。それは後にして。もう明日から新学期
始まるんだから、それに向けてどうするかを考えないとさ」

僕と親の役回りが逆じゃんか。ぶつぶつぶつ。

「現実的な選択肢はあんまりないと思う。新学期に合わせて
すぐ学校に行けるようなら、ここになんか来ないよ」

「ああ」

ほっとしたように、健ちゃんがうなずいた。

「それなら少しだけ冷却期間を置いて、その間に転校やカウ
ンセリングをどうするか、みんなで考えた方がいいよ」

「そうだよな」

「ただね」

ふう……。

「ねえ、さゆりちゃん。勉強を甘く見てない?」

「……」

「高校は義務教育じゃないよ。自発的に勉強しにいくところ
なの。勉強するのがどうしてもいやだったら、すぐ働いた方
がいい」

「う」

「でもね、働くにはいろんなことを知ってなきゃなんない。
僕の知り合いで高校中退して働いてる人がいるけど、ものす
ごく今勉強してるの。働きながら勉強もするって、大変だと
思う」

「誰?」

母さんが突っ込んできた。

「尾花沢さんとこの山崎さん。ゴナン中退なんだ」

「うわ……」

「すっごい勉強してるよ。親方厳しいし」

「やるわねえ」

「でも、大変だよ。働くだけでもくたくたになるのに、その
上勉強もしないとなんないから。高校生として勉強させても
らえるなら、今のうちにしっかりやっといた方がいいと思う」

「そうね」

「それとね。復学するにしたって、きつい問題があるよ」

「なに?」

「さゆりちゃんにはでっかいハンデがあるから」

「ハンデ?」

健ちゃんが首を傾げた。

「出席日数さ」

「あ」

「一年のカリキュラムをきちんと消化出来ないと、進級出来
ない。留年になっちゃうの。転校したって一年生をもう一回
やらないといけなくなる。一学期ほとんど学校に行ってない
なら、かなりヤバいと思うよ。病気とか、そういう理由じゃ
ないんだし」

「うん……」

「そういうことも含めて、もう一度家族で話し合ったらいい
と思う」

ふう。

「ねえ、さゆりちゃん」

「……」

「今さら、誰がいいとか悪いとか言っても始まらない。自分
がどうするかは、誰も決めてくれないよ。さゆりちゃんがど
うしたいか分からないと、誰も動けないんだ」

「う……ん」

「さっき母さんが言ったけどさ。意地張るなら、徹底的に張
んなよ。中途半端にへこむんじゃなしにさ」



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