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三年生編 第91話(6) [小説]

智美さんがラッピングしてくれてる間、店舗の奥の住居ス
ペースで、娘さんとおばあちゃんが僕に向かって手を振って
いた。

今ドアを開けちゃうと、娘さんが脱走しちゃうからだろなあ。
でもあの時生まれた娘さんが、もう二歳なんだよなあ。
早いなあ……。

「はい。お待ちどうさま。350円です」

おっと。
慌ててお財布を出して、お金を払う。

「いつもありがとねー」

「また来ますねー」

「はあい」

智美さんに手を振って、店の明かりが届かないところまで歩
き過ぎたところで。持っていた買い物の荷物もさっき買った
ヘリオトロープも暗闇の中に紛れた。
僕の手に加わる重みとかすかに漂ってくるヘリオトロープの
花の匂いだけが、そこに何かがあることを示してる。

ああ……全てが見える形になれば、どんなに便利だろうと思
う。それなら、疑う必要も裏切られる心配もなくなるから。
僕は信じられるものだけをチョイスして、自分の空間を埋め
ればいい。部屋の中も、心の中も。

でも、そんなことは誰にも出来ない。
出来ないからこそ、トラブルが起きる。
誰も望んでいないトラブルが。

「ふうっ!」

僕は、顔を上げて灯り始めた街灯を見上げた。

「だけど。見えないからこそ見ようとするんだよな」

さっき、しゃらのアパートで、しゃらが僕に大丈夫って言っ
たこと。その言葉には、何の根拠も裏付けもない。
そんなもの、なんの支えにも頼りにもならない。

もしそれが。
しゃらの口から出た言葉じゃなければね。

でも、僕らはその言葉を二人でちゃんと裏打ちしてきたんだ。
お互いが、本当に相手を信じられるようにって。
ぶきっちょな僕らは、何度もぶつかりながらそれにトライし
てきたんだ。
だから、しゃらは僕に大丈夫って言えるし、僕もそれがしゃ
らの本心なんだって信じられる。

暗くてよく見えないヘリオトロープの花を見下ろす。

花のないところから匂いなんかしないよ。
そこに花があるから……匂うんだ。
その花がどんなに小さくて地味でもね。


           −=*=−


僕が買い物から戻ってきたら、母さんと実生がすでに臨戦態
勢に入っていた。

「いっちゃん! じゃまだから下に降りてこないでね!」

「うへえ。はあい」

「お兄ちゃん、じゃまっ!」

とほほ……。

実生が、床いっぱいに広げられた衣類やベビー用品を小分け
にしてビニール袋に詰め、内容確認しながらばしばしタック
シールを貼っている。
何も考えないで、その日付のものを使ってくださいってこと
なんだろう。

母さんは、台所で山のような食材と格闘している。
数日分の備蓄を提供して、あっきーへの負担を軽くするんだ
ろうな。あっきーも受験生だからね。

こうなると、僕の出番はない。
退散!

自分の部屋に入って、あらためて見回してみる。
相変わらずものが極端に少ない、そっけない部屋。
でも、そこには二年半の間に僕の匂いと気配が染み付いたん
だろう。

ここで泣いたこと。吐いたこと。汗を散らしたこと。
僕の感情と行動は、それを部屋にきっちり塗りたくってきた
んだ。
見えるものは何も増えていなくても、僕の存在だけはくっき
りと刻み込まれているんだろう。
ここを出た後で、僕はそれをどう思うようになるんだろうな。

考え事を部屋の隅に放り出し、ぎしりと椅子を鳴らして机に
向かった。
それから数学の問題集を出して、今日の分を解き始める。

いろいろあっても、過ぎた今日はもう戻ってこない。
その時間を……無駄にしたくないから。




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