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【SS】 制約 (上野千鶴、リドルのマスター) (一) [SS]


「ほんとにわたしでいいんですか?」

わたしは、マスターに何度も確認した。
マスターが提示してくれたのは、わたしには夢のような好条
件だったけど、本当にそれでいいのかが信じられなかったか
らだ。

「いや、僕の出した条件で承けてくれるなら、本当に助かり
ます」


           −=*=−


二人目の子供が生まれてから、それまでの生活が一変した。
朝から晩まで育児と家事で振り回され続け、子供一人の時は
なんだかんだでまだ確保できていた自分の時間が、まるっき
りなくなった。

自分はのんびり屋だから、このくらいのストレスは平気よ。
夫にも親にもそう言って安心させてたけど、平気だっていう
ポーズすら取れなくなっていた自分の心の危うさに……愕然
とした。

家に閉じ込められたまま、ストレスのはけ口がどこにも見つ
けられない。
ストレスが爆発して、自分の子供に鬱憤をぶつけてしまうん
じゃないかって……すっごい怖かった。
わたしは、ぎりぎりまで追い詰められていたんだ。

お義母さんが、そんなわたしの窮状を一早く察してくれた。

「子供たちは見ててあげるから、週に半日くらいは外でしっ
かり気晴らししなさいな」

そう……提案してくれた。
わたしは本当にラッキーだったんだろう。

子供たちがいなくても、家事はしないとならない。
わたしがずっと家にいると、結局体も心も休まらない。
だから、お義母さんの申し出は本当に嬉しかった。

でも、ただお茶するとか買い物するとかだと、結局家のこと
が気になってしまう。
それに、子供をほっぽらかして自分だけが遊んでいるように
思えて、気軽に友達を誘えない。

全然気晴らしに……ならないんだ。

働きたい。
それは、お金のためじゃない。
わたしの気持ちを、家や子供のことからぱちんと切り替える
ためだ。

独身時代はずっと店員をやってて、接客には慣れてる。
接客している間は、お客さんに意識を集中出来るんだ。
他に何も考えなくて済む。
そういう時間が欲しい。どうしても欲しい!

でも、週に一回だけ、それも半日だけの勤務なんて、いくら
パートだって言ってもありえないでしょ。
せっかくお義母さんが提案してくれた息抜きが、空振りに終
わるかもしれない。目の前にチャンスがあるのに……。
わたしは、また追い詰められてしまったの。

そんな、世の中わたしに都合良くは出来てないよね……。
意気消沈したわたしがふらっと入った喫茶店。
そこが……リドルだった。

普段食料品とかを買い物する時には、大型スーパーに行くこ
との方がずっと多い。
でもわたしは、昔からの商店街で買い物するのが好きだった。
値段とかそういうことじゃなくて、人と人とが直接触れ合う
機会が必ずあるから。

魚屋の元気なお兄さん。
八百屋の強引なおじさん。
肉屋の仲のいい年配のご夫婦。
他愛ない会話であっても、そこで言葉をやり取りする楽しさ
があった。

そして、商店街のアーケードの中は車がほとんど通らなかっ
た。
子供連れで安心して歩けるっていうことも、わたしには嬉し
かったんだ。

リドルは、その商店街の中にある喫茶店。
前から気にはなってたけど、子供連れじゃ入れない。

でも、そこに興味があったからっていうことじゃなく。
わたしは、どこでもいいから逃げ込みたかったんだろう。



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ドアを引いたら、ドアベルがちりりんと鳴って、その音にび
くっとした。

薄暗い店内には年配のお客さんが何人かいて、各々コーヒー
や紅茶を飲みながら新聞に目を通したり、本を読んだりして
る。入ってきたわたしを見る人は誰もいない。

ボックス席を一人で占有するのはあれかなあと思って、カウ
ンターの椅子に腰を下ろした。

「いらっしゃいませー」

マスターは、わたしよりかは年上っぽい、でも中年というに
はまだ若い男の人。
微笑を浮かべながら、サイフォンを組み立てていた。

「何にいたしましょうか?」

「ええと……ココア、出来ます?」

「大丈夫ですよ。ミルクとお砂糖はどうなさいますか?」

え?

「いえ、甘いのがお好きな方、あっさりがいいとおっしゃる
方、いろいろおられるので」

うわ……すごおい。
ちゃんと好みに調整してくれるんだあ。
わたしは、それでいっぺんにこのお店が好きになった。

「じゃあ、甘め、濃いめでお願いできます?」

「かしこまりました」

年季の入ったミルクパンに特濃牛乳が注がれ、コンロの細い
火でゆっくりと温められた。
大きめのマグカップにきび糖とココアパウダーを量り取った
マスターはスプーンで掬った牛乳を垂らして、それをしっか
り練り上げた。

牛乳に膜が張らないうちに鍋をコンロから下ろしたマスター
は、慎重にマグの中のココアペーストを溶き伸ばしていく。

手間が味の違いに出るコーヒーや紅茶とは違う。
たかが、ココアじゃないか。
ココアパウダーと砂糖とホットミルクを入れてがちゃがちゃ
かき回すだけでもココアは出来る。

でも、マスターはそうしなかった。
丁寧に、丁寧に、一杯のココアを作り上げた。

「お待たせいたしました。ゆっくり温まっていってください
ね」

「ありがとうございます」

その一杯のココアは。
かちかちに張り詰めていた心を緩めてくれるくらい、暖かく
てほっとする味だった。

 

 


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コメント 8

yakko

お早うございます。
心温まる美味しいココアでしたね !
by yakko (2016-02-29 09:36) 

saia

思わず、ココアが飲みたくなってしまいました(゚∀゚)ノ”
いつもは、まさに「ココアと砂糖とミルクを入れてがちゃがちゃ
かき回すだけ」ですが、今日は丁寧に入れてみようかな♪

by saia (2016-02-29 14:31) 

JUNKO

私はココアが好きでアツアツをいただきます。お店によって味がずいぶん違います。
by JUNKO (2016-02-29 21:59) 

水円 岳

>yakkoさん

コメントありがとうございます。(^^)

丁寧に作ってくれているのを見ると、それだけで
おいしさ100%増量ですね。(^^)

by 水円 岳 (2016-02-29 22:00) 

水円 岳

>saiaさん

コメントありがとうございます。(^^)

わたしも大好きなんですが、糖分摂取を抑えないと
ならないので、ココアパウダーに黒糖、ラム酒、シナ
モンを加えて、スパイシーにします。オリジナル。(^m^)

by 水円 岳 (2016-02-29 22:02) 

水円 岳

>JUNKOさん

コメントありがとうございます。(^^)

ほんと、味が店によって全く違うんですよね。
中には、ココア水?というくらい薄いのがあったり
します。(^^;;

by 水円 岳 (2016-02-29 22:03) 

風来鶏

バンホーテンが、ココアパウダーを発明してくれたことに感謝します(^_^)v
それまでのホットチョコレートは、(王侯貴族に愛された)苦いだけの"精力剤"だったようですから(^^;;
by 風来鶏 (2016-03-01 09:15) 

水円 岳

>風来鶏さん

コメントありがとうございます。(^^)

カカオ90パーセントの板チョコは。

……薬でした。(T^T)

by 水円 岳 (2016-03-01 23:01) 

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