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三年生編 第85話(3) [小説]

「どうせ、親や先生がお膳立てしてくれる期間なんか少しし
かないんだ。自分に言い訳して、何も出来ないってぶつくさ
文句言ってたら、その先きっと何も出来ないよ。そんなの、
僕はやだな」

「うん。わたしもやだ」

窓の外に目を向けたしゃらが、突然おとついのことを口に出
した。

「伯母さまの前で口にしたこと」

「うん?」

「気持ちを切り替えたいって」

「ああ、この前の」

「そう。あれね、本当にそう思うんだ」

「うん」

「高校に入ってからのわたしには、いいことしかなかった。
だから、もう後ろは見たくない」

「だよな」

「でもね、嫌なことばっかだったから今前を見てるって言い
方もしたくないんだよね。それって、お兄ちゃんの言い訳と
同じだもん」

「そうか……」

「だから、どっかですぱっと切り替えたい。家とお店が新し
くなるのは、本当にいいきっかけかもしれない」

「うん。しゃらにとってだけでなく、ご両親やかんちゃんに
とってもそうだろなー」

「うん!」

僕だけじゃなくて、しゃらも同じように考えてたってことか。

中学までのいじめのこと。
僕やしゃらについた心の傷は……たぶんこれからもどこかに
残り続けると思う。
上にかさぶたが乗っかってるから、人からだけじゃなく、自
分でも傷が見えなくなるだろうけど。

でも、傷がなくなったわけじゃない。

田中さんと話をした時にも。
僕やしゃらが受けたいじめの話は、なんの抵抗もなくさらっ
と口から出てきてしまう。

僕の中の、そしてしゃらの中の傷は、今でもくっきりと残っ
ている。
身体と心が丈夫になって、傷の痛みに慣れただけなんだ。

「……」

でも。傷を負っているのは、僕やしゃらだけじゃない。
誰もが心に傷を負っている。例外なく、誰もが。

それなら、自分の傷をみんなに見せて、だから配慮してくだ
さいっていうやり方はほとんど意味がない。
だって、立場はみんな同じなんだから。

傷が古くなればなるほど、傷をアピールすることが自分の情
けなさや覇気のなさだけをあぶり出すようになる。
それが……まさに今のしゃらのお兄さんの姿だ。

情けないってだけじゃない。
自分の傷ばっか見ていると、人の傷に気付かなくなるんだ。
ぱっくり裂けた傷口からだらだら生血を流している人が目の
前にいるのに、もうほとんど塞がって見えなくなった自分の
古傷をなでていたら。

……もう、僕らは被害者じゃない。
加害者になってしまうんだよね。

昔の暗黒時代を忘れることはない。
いや、忘れることは出来ない。
でも、そこに自分を縛り付ける生き方は……もうしたくない。

僕もしゃらも、まず、今を。それから、少し先の未来を。
しっかりとこなしていかないとならない。

後ろから追っかけて来るものは、もうない。
本当の困難は、これから。前から、未来から来るんだ。
だって、高校という防波堤はあと少しでなくなってしまうか
ら。



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三年生編 第85話(2) [小説]

来知大は、田貫市の隣町にある。
田貫市自体が線路沿いに発達したびろーんと長い町だから、
隣町って言っても遠いとは限らない。

駅前から来知大行きのバスが出ていて、三十分もかからない
で着いちゃうみたい。
市内でも乗り継ぎが必要な学校があるから、来知大はアクセ
スしやすい方なんだよね。

僕らの他にも見に行こうっていう子がいるかもしれないなー
と思って乗り場を見回したら、やっぱり。
ぽんいちの制服を着た生徒が何人かいる。
他の学校の制服もちらほら見えるから、関心を持ってる子が
結構いるってことなんだろう。

奥村さんも、ほっとしてるだろうな。

バスに乗り込んですぐ。
隣に座ったしゃらがダイレクトに突っ込んできた。

「ねえ、いっき」

「うん?」

「なんで、実生ちゃん、来なかったの?」

「ははは。そうだよなー。こういうお祭り空気大好きのあい
つなら、必ず興味津々で突っ込んで来るはず」

「うん。珍しいなあと思って」

「決まってる。試験でこけたんだろ」

「あだだ……」

しゃらが頭を抱えた。

「まあ、ついてないっていう面もあるけどさ」

「ついてない?」

「そう。今年は、新入生のレベルが異様に高いんだ。そして、
学校がその子たちを基準にしようとして、いつも以上にハー
ドルを上げようとしてる」

「……」

「期末試験のレベルが、実生の想定を超えてたんだと思うよ」

「う……わ」

「夏休み前の追試。それを一発でクリア出来ればよかったん
だけど、どじったんだろ」

「よくアルバイトに跳ねなかったね」

「担任があのずぼらな早稲田先生でしょ? 細かいとこなん
か、いちいち見ないよ」

どてっ!
しゃらがぶっこけた。

「てか、やる気がなくて成績悪いなら、あんたは努力してな
いからダメって言うかもしれないけどさ。実生は文系科目は
一発全クリしてるんだ。こけたのは数学だけ」

「そっかあ」

「そこをハードル上げられると、どうにもなんないよ。早稲
田先生は、目ぇつぶってくれたんでしょ」

「でも、次のがアウトだと……」

「そう。部活に出られなくなる。今、あいつにはクラスより
もプロジェクトの方の友達が多いんだよ。部活を取り上げら
れたら死活問題さ」

「うわ」

「実生だけじゃない。うちのプロジェクトでも、何人かは必
死に追い込んでるはずだよ」

「厳しいね」

「何もそこまでっていう気はするけど」

「うん」

「でもさ。今までのゆるいぽんいちに戻ることは、もうない
と思うな。それなら、新しいぽんいちを創っちゃえばいいよ
ね。先生たちが、じゃなく、僕らがね」

しゃらが胸を張って、にこっと笑った。

「そだね!」


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三年生編 第85話(1) [小説]

8月22日(土曜日)

緊張しまくった田中さんとの面会が影響して、僕のペースを
取り戻すまで丸一日かかった。

僕としてはすぐ受験生モードに戻りたかったんだけど、家に
帰るなり母さんから根掘り葉掘り探りが入ったし、五条さん
や森本先生からもがんがん電話が来たし……。

僕以上に緊張と気疲れがひどかったはずのしゃらの負担を増
やしたくなかったから、僕が何をどこまでオープンに出来る
か慎重に調整しながらずっと説明することに。

面会に行ってる時以上に、どっと疲れたわ。

五条さんには、弓削さんが絡んだいろいろな事件の幕引きを
任せないとならないから、円乗寺の住職さんから伺った昔の
ことを中心にしっかりと話をした。

弓削さんのお母さんと田中さんが、どちらも同じ村の出身者
であるってことは、縁者からも情報をもらえるってこと。
もっとも……弓削さんのお母さんも田中さんは、そろって親
兄弟や親戚から縁を切られているらしくて、情報なんか何も
出てこない可能性もあるけど。

でも僕らが聞くのと警察が動くのとではわけが違う。
だから、情報としては伝えておいた方がいいよね。

森本先生への情報提供は、伯母さんが苦慮してる佐保さんの
次のケア計画策定に役立ててもらうためだ。
森本先生は、プロとして情報の必要部分だけを抽出して使う
と思う。だから、森本先生が欲しいと言った部分は隠さずに
全部伝えた。

一番厄介だったのは、母さんのツッコミだった。

そりゃあ、札付き犯罪者に僕らが関わるってことを心配する
のはよーく分かるよ。実生のこともあるんだしさ。
でも母さんが厄介なのは、単なる野次馬的興味と心配ゆえの
探りの区別がまるっきり付かないってこと。

これまでも、僕としゃらのプライベートをべらべら会長や伯
母さんに垂れ流してきてるからね。
うちは、これまでは徹底的に隠し事なしのオープンスタイル
だったから、母さんが知らない僕らのヒミツがあるっていう
のが気持ち悪いのは分かる。

秘密なし。それが母さんなりの一貫したポリシーだし、ねた
ばらしが全部だめって言うつもりはないけどさ。

でも自分たちのこと以外のプライベートについては、その主
が誰であっても慎重に扱って欲しい。
何がどこでどんな風に漏れるか分からないし、それが佐保さ
んのケアに跳ねたらしゃれにならない。
母さんがちゃんと責任取れるんならいいけどさ。

申し訳ないけど。僕は最初にずっぷり釘を刺した。

「母さん、僕から何か聞き出そうとするのは構わないけど、
それを漏らして誰かの恨みを買っても……どっかでぶっすり
刺されても、それには一切責任持たないからね」

僕がおちゃらけではなくマジ顔でそう警告したことで、少し
はヤバいと思ってくれたんだろうか。
根ほり葉ほりのしつこさは、これまでよりは控えめだったか
もしれない。

それにしたって、家に帰ってまで何を言うか選びながら過ご
すっていうのは、本当にしんどかった。

一日経って。やっと、そういうのから解放されて。
僕は、心の底からほっとしてる。

「はああ……やれやれだよなあ」

そして今日は、気分転換にぴったりのイベントが入ってる。
そう、前に奥村さんから誘われた来知大のオープンキャンパ
ス。それに、しゃらと二人で行くことにしたんだ。

来知大は僕らの志望校ではないけどさ。
だからこそ、大学ってどんなとこかなーっていう探りが気楽
に入れられるよね。

僕が受験予定の県立大は、オープンキャンパスが九月下旬。
そして、所在地が田貫市の近くじゃないから、しゃらと二人
で行くのはタイミング的にちとしんどい。
しゃらが目指してるアガチス短大のオープンキャンパスは八
月末なんだけど、男は入場出来ない。

先々、僕としゃらの進路が割れる予兆が、もうくっきり見え
てるみたいだ。

それなら、片桐先輩と準規さんとこみたいに二人で過ごす
キャンパスライフってのを、ほんの少しだけでもいいから味
わいたい。

まあ、そんなことをちらっと考えて、見学の予定を組んだん
だよね。

自分の志望校じゃないから、どうしてもお祭り気分、冷やか
し気分になっちゃうけど、ここんとこ重い展開が多かったか
らしっかり気晴らししてこよう。

「いっちゃあん!」

「ほーい!」

「御園さん来たよー」

「今降りるー」

残念なのは、場所が遠いから私服で行けないってことだよね。
それはしゃあない。

僕は制服の乱れがないかをもう一度確かめて、リビングに降
りた。

「うーす!」

「おはー! 楽しみだー」

「んだ。大学祭でないって言ってもお祭り要素はあるし、
しっかり楽しんでこようよ」

「うふふ」

「ああ、いっちゃん」

「なに?」

「先々、実生の進学先になるかもしれないから、ただ遊ぶだ
けじゃなくて、しっかり雰囲気とか見てきてね」

「うーい」

ちぇー。母さんも、余計な荷物を持たせるんだからあ。
まあ、しゃあないか。

「あれ? そういや実生は?」

「珍しく勉強してるけど」

ぴん!

「そっか……じゃあ、言ってくるわ」

「気をつけてね」

「行ってきまーす」





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ちょっといっぷく その169 [付記]

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

本編を四話ほどお届けしました。
夏期講習が明け、お盆に悲しい別れがあって、いっきが夏休
み後半戦をどうしのぐか。

勉強にしっかり集中したいところなんでしょうけど、いろい
ろ起こることはいっきの事情を一切勘案してくれません。

それらをこなしながらの後半戦スタートになりました。


           −=*=−


第八十一話。
家族全員がお世話になった大叔父の葬儀に、父親以外誰も出
席できない。
いろいろな厄介ごとが並行して動いているので、仕方ありま
せんね。

悲しさを紛らわせようと出かけて巴伯母さんに捕まったいっ
きは、しなければならないことを後回しにしてしまった後悔
にどやされるようにして、弓削さん案件への助力を切り出し
ます。

それは純粋に弓削さんの今後を案じてというよりも、多くの
人を巻き込んでもつれてしまった運命の糸を丁寧に解きほぐ
すため。
そうしなければならない義理は何もないんですが、辛かった
時に心を支えてくれた大叔父勘助の暖かさを、いっきは決し
て忘れないんです。

できることはすぐしよう。
受験が控えているから何もできない……そう言い訳せずに、
いっきは機敏に動きます。


第八十二話。
自分や実生と、親との距離感の微調整。
そして、後輩と中庭との関係の微調整。

微調整がテーマでした。

なにもかも原点に戻して修正するってことは、誰にもできな
いわけで。
今立っているところから前後を見据え、少しだけ立ち位置を
調整する。
そういうプロセスを見ていただけたかなと。


第八十三話。
二年生の夏休みにしゃらと激しく揉め、大きな心の傷を負っ
てしまったいっきですが、親や会長とは違ったスタンスで
いっきの安全柵を務めてくれたのが、設楽寺住職の光輪さん。
その光輪さんと若奥さんの間に、第一子の女の子が生まれま
した。

いっきもしゃらも大喜びなんですが、同時に、重い過去を背
負っている光輪さん夫婦の今後が心配になってしまいます。
光輪さんは、これまでいっきたちに詳しく明かさなかった自
分の過去をフルオープンしましたからね。

過去を清算せず、その重荷を背負ったまま自分の子供と向き
合う。
覚悟だけでこなせることではありません。
いっきはそこに、持って生まれた業の深さ、重さを思い知ら
されるのです。

光輪さん夫婦だけでなく自分たちにも、同じように業がある
のですから。


第八十四話。
テーマは縁です。

切らなければならない縁。
切ってはならない縁。
新たに結ぶ縁。

弓削さんと、弓削さんの実父であることが判明した田中とい
う粗暴な男。
いっきやしゃらは、決してそいつとの縁を結びたくはなかっ
たでしょう。
でも弓削さんの将来を少しでも明るくするためには、新たな
縁の創出だけではどうしても足らないんです。

一度物理的に切れてしまった親子の縁を、どこかで結び直す
チャンスを作る。
いっきはうまくできたかどうか不安だと言っていましたが、
過不足なしのぴったりだったかと。

ただ、伯母の巴がそう評価しなかったのは、ぴったりなのは
今だけだからです。
これから時間を重ねていく間に、失われてしまう縁がどうし
ても出てきてしまいます。

縁を結ぶのは簡単だけど、それを結び続けるのは大変。
田中の代わりに弓削さんの母親の墓参に行った三人は、善悪
を問わず誰もが時代の流れに翻弄されている現状を見て、ひ
どく複雑な心境になったでしょうね。

それでも。
『今』を繋がないことには、何もできません。
いっきたちの苦闘は続きます。


           −=*=−


さて。
このあと第八十五、六話と二話続けたところでいっきの高校
最後の夏休みが終わりになります。
楽しいこと、厄介なことがそれぞれ一つずつ。

それを読んでいただいたところで、またしばらく本編を休止
いたします。



ご意見、ご感想、お気づきの点などございましたら、気軽に
コメントしてくださいませ。

でわでわ。(^^)/




sdw.jpg



「怒髪天というのを表現したかったんだ」

「どう見てもそう見えんよ」

「うん。オーラが散漫すぎ」




(^^;;





すっかり秋の空になりましたね。(^^)



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三年生編 第84話(11) [小説]

「ねえ、伯母さん」

「なあに?」

「みんな……それぞれに人生っていうのがあるんですね」

「そうね。それが誰にとっても誇れるものなら一番いいんだ
けど」

伯母さんが、ふうっと息をつく。

「人生はほとんど選べないし、後戻りも出来ない。だからこ
そ、いつでもやり直せるって考えないと」

「そっか。壊れちゃうってことか」

しゃらが、すっごい納得したって顔でうんうんと頷いた。

「そう。リスタートしたって考えられることはすっごく重要
よ。いつきくんも御園さんも、それがうまく出来たから今の
自分があるでしょ?」

「はい!」

「間違いなくそうですね」

「私もそうよ。そして今日、田中にリスタートのチャンスが
来た」

伯母さんの声にどすが利いた。

「どうしても、それを活かして欲しいな。佐保ちゃんのお母
さんが生きていたことを、ただのゴミにしてしまわないため
にもね」

それきり。
伯母さんが口を開くことはなかった。

気疲れから解放されて、僕の肩に寄りかかって気持ち良さそ
うに眠っているしゃら。
その横顔を見ながら、僕は今日の出来事を静かに振り返る。

たくさんの人が。
何一つ思うようにならない現実を目の前にしながら、それで
も必死に生きてる。

みんながみんな、楽しいわけでも幸せなわけでもない。
でも、少しでもいいなって考えられる人生にしたいなら。
まずは、生きていないとどうにもならないんだ。

生きてることが99パーセント辛くても、残り1パーセント
の幸せが辛さを全部引っ繰り返せるくらい大きかったら、
きっと生きててよかったなと思えるはずだよね。

僕は……そう信じたい。
どうしても、そう信じていたいんだ。



zenia.jpg
今日の花:ゼニアオイMalva sylvestris var. mauritiana


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三年生編 第84話(10) [小説]

ゆっくり僕らの向かいに戻ってきた住職さんは、腰を下ろし
てことことと昔話を始めた。

「みーちゃんは、この田舎では目立つべっぴんさんだったん
さ。それに勝気で、おしゃべりで、派手。けんど、田舎じゃ
あそれは大した取り柄になんない」

「どうしてですか?」

しゃらが首をかしげる。

「べっぴんさんは、どこにいたって浮くからだよ。性格がい
いんならともかく、見栄っ張りの派手好きじゃあ、田舎にゃ
あ居場所がないなあ。みーちゃんが町に出てくのは当たり前
だ。そらあ珍しくもなんともない」

住職さんが、位牌から目を逸らして外を見る。

「耕ちゃんは正反対だ。無口で、無愛想で、不器用。人付き
合いが苦手で、引っ込み思案。ああいうやつは、気心の知れ
た知り合いがいる田舎にしか身の置きようがないよ。それな
のに……みーちゃん追って、出て行っちまった」

ふうっと。
住職さんが大きな溜息を畳の上に吐き出した。

「みーちゃんは、田舎ではちやほやされてても、町に行きゃ
あただの田舎もんさ。すぐに身を持ち崩した。みーちゃんが
心配だった耕ちゃんは、本当はここに連れ帰りたかったんだ
ろ」

そうだったのか……。

「死んでからじゃあ、もう遅いよ」

やり切れないっていう風に位牌を見下ろした住職さんが、ゆ
らゆらと首を揺らした。

そうか。
田中さんは、昔から自分のことをよく知ってる住職さんくら
いにしか悩み事の相談が出来なかったんだろうな。

「わしが、ずっとみーちゃんのお参りしてやれりゃあ一番い
いんだけんど、ここもいつどうなるか分かんないんだ。無縁
になっちまう前に、誰かにお参りしてもらえてよかったさ」

「え?」

僕がどうしてですかと聞く前に、住職さんがシビアな現状を
漏らした。

「田舎の山寺継ごうなんてえ物好きはいないね。息子たちも
みんな町へ出た。わしがくたばったあとは、ここは無人にな
るよ。墓ぁあっても、誰も世話してくれん。弔ってくれん」

うわ。

「平地(ひらち)の墓所なら、どっか他の坊さん頼めば供養
が出来っけどさ。この寺の墓所に納められてるお骨は、全部
無縁になる。墓ぁどっかに移したくても、わしには檀家がも
う分からないからなあ」

「ど、どうして……ですか?」

しゃらが、ものすごくびっくりしてる。

「先祖代々ってぇのが、どんどん廃れてるんだよ。村ぁ出て
行ったんは、みーちゃんや耕ちゃんだけじゃない。若いんが
誰もいなくなって、子供に置いてかれたじいさんばあさんだ
け残ってる」

そんなあ。

「年寄りぃ死んだら、それっきりさ。誰も住まない古家と荒
れた土地だけが残っちまうんだ。寺と檀家の縁が、どんどん
切れてるんだよ」

ぞっ……。

でも。住職さんはさばさばしていた。

「そんなもんだよ。まあ、わしだけじゃなくて、誰も死んだ
あとのことなんかよう分からんし、死んじまってからじゃあ
どうしようもない。無縁だから困るってぇこともないだろ。
それより」

位牌を手に取った住職さんが、それに向かって話しかけた。

「なあ、みーちゃん。死んだあとまで耕ちゃん縛るんじゃな
いよ。わがままも大概にしな」


           −=*=−


お参りを済ませ、住職さんにお礼を言ってお寺を出た。

車に戻る道すがら、参道の横にちらっと小さな赤っぽい花が
見えて、そこで足が止まった。

「どしたん、いっき?」

「いや、これってなんだったかなあと」

僕らを見送るために一緒に歩いていた住職さんが、屈託なく
笑った。

「あっはっはあ! あんたぁ目ぇいいなあ。それはゼニアオ
イさ」

「ゼニアオイ、ですか」

「そう。花が昔の銭くらいに小さいから銭葵。寺の庭にあっ
たんが、ここまで逃げてきたんだろさ」

ぷちっ。
住職さんが、花を一つむしる。

「庭ぁみたいな狭いとこにおられるかあって、逃げて。それ
でも、せいぜいここらへんがとこだよ。みーちゃんも耕ちゃ
んも、お釈迦様の手のひらの上」

……。

「それでも、生きてりゃあこやって繋がる縁がある。なあ、
耕ちゃん。あんたぁ、いい縁つなげてもろたなあ」

小さなゼニアオイの花に話かけた住職さんは、僕らに向かっ
て深々と頭を下げた。

「また、お参りに来てな」

「はい!」

「帰り道、気ぃつけてな」

「ありがとうございます。失礼します」

「お世話になりましたー」


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三年生編 第84話(9) [小説]

僕もしゃらも伯母さんも、そのあとずっと黙ったままだった。
田中さんから教わったお寺に着くまでの一時間は、淡々と過
ぎた。

青い稲の葉っぱがそよぐ田んぼの間をすいすいと走り抜けた
車は、山裾に生い茂る緑の中に潜り込んでいって。
すぐに止まった。

「お。着いたかな?」

「ナビでは、ここということになっていますね」

白髪の運転手さんが、伯母さんと一緒になって周囲を見回し
た。

「ああ、あれかな」

伯母さんが指差したところには、設楽寺とどっこいどっこい
の小さくて古いお寺が。

ドアを自分で開けて車から降りた伯母さんが、気持ち良さそ
うに深呼吸した。

「ふう……こりゃあ、いい場所にあるなあ。母の遺骨を、こ
こにも分納しようかしら」

おいおい。

でも、伯母さんがそう言いたくなる気持ちもよく分かった。

お寺自体は地味で小さいんだけど、境内の木々はすっごい立
派。一本一本に個性と歴史があるっていう感じ。
時間と日差しをもりもり食べて大きくなったって、そんな印
象だった。

モヒカン山のてっぺんや設楽寺のあたりは、木々があるって
言っても雑木と造林地ばっかで、こういうでっかい木がもり
もり生えてるって感じじゃないもんな。

空気にも、街の匂いが全く混じってない。
純粋に、木々が吸って吐いてる清々しい呼気の中にいる。
うーん……お参りに来て、森林浴することになるとは思わな
かったなあ。

さっきの拘置所での閉塞感とはまるっきり逆。
何かから解放されたような気分で、僕らはしばらく深呼吸を
繰り返した。

「さあ、行きましょうか」

「はい」

運転手さんには車で待っててもらって、三人でゆっくりお寺
に向かった。
本堂の横に小さな平屋の家があって、それが住職さんの家ら
しい。

伯母さんが、ちゅうちょしないで呼び鈴を押した。

「ほいほい。ちょい待ってな」

拍子抜けするくらいに明るくて軽い声がして、カラフルなT
シャツ短パン姿のおじいさんが、ひょいと出てきた。

うわ……。
光輪さんとも重光さんともタイプが違う。
なんつーか……雰囲気がとってもライト。
ファンキーな感じのおじいさんで、お坊さんていうイメージ
じゃないなー。光輪さん以上に型破りかもしれない。

しゃらもあっけに取られてる。
でも……なんか、ほっとする。

「みーちゃんのお参りに来た言うとったな」

みーちゃん、かあ。
愛称で呼んでるってことは、住職さんが弓削さんのお母さん
を知ってるってことなんだろう。

「はい」

「今本堂を開けるから、ちょと待っとってな」

さっと引っ込んだ住職さんが、袈裟に着替えて、鍵束を持っ
て出てきた。

「ほな、本堂に上がって待っとって。お骨と位牌を持ってく
るから」

僕らは、案内された小さなお堂の仏像の前でしばらく待たさ
れた。

「よっこらしょ」

住職さんの声がして。
白い布で包まれた遺骨の箱と小さな位牌が僕らの前に並べら
れた。

「ほな、お経を唱えますんで、黙祷をお願いしますー」

本当に、もったいぶるってことがないさっぱりした住職さん
だった。

十五分くらいの読経の時間が終わったら、遺骨と位牌に黙礼
した住職さんが、くるっと僕らの方を向いた。

「今日は遠いところをご苦労さん。みーちゃんの縁続きの人
かい?」

「いいえ。田中さんの代わりに……」

僕がそう言ったら、住職さんが苦笑いした。

「なんだ、耕ちゃんの方か。耕ちゃんここに来れんのは、ま
た何かやらかしたってこったな」

住職さんには全部お見通しらしい。
顔を見合わせた僕らは、住職さんと同じように苦笑いするし
かなかった。

住職さんは、立ち上がってふすまを全部開け放った。
漂っていたお線香の匂いが吹き払われて、清々しい森の空気
に入れ替わった。

縁側に立ったまま外の緑濃い景色を見回していた住職さん
が、ぽつりと漏らした。

「結局、みーちゃんの最期看取ったのもその後のことも、
手ぇ尽くしたのは耕ちゃんだ。ほんなら、みーちゃんももっ
と早く身ぃ預ければ良かったんに」

……。

「まあ、男女の仲ってぇのは、なかなかうまく行かんね」

「あの。ご住職さんは、弓削さんや田中さんをよくご存知な
んですか?」

聞いてみる。

「二人ともここの出だからね」

住職さんが、ゆっくり目を細める。

「若い頃は、町に行けばなんでもあると思ったんだろさ。そ
んなの、どこに行ったってあるもんは同じだよ」

「あはは……」

笑うしかない。

「なんでも、やってみんことには分からんからなあ。しょう
がない」



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三年生編 第84話(8) [小説]

「ネグレクトでも過剰干渉でも、幼少時からの異常な接し方
で一度性格を壊してしまったら、そう簡単には修復出来な
いってこと。その厳しい現実を、毎日突きつけられてる」

ふうっ……。
伯母さんの口から細い吐息が漏れた。

「それにね。もっと厄介なことがあるの」

「もっと……ですか?」

「そう。佐保ちゃんの子供。みわちゃん。出生日がはっきり
しないけど、たぶん六、七か月くらいかな。もう離乳準備に
入ったの」

「へえー」

「そのくらいになると、赤ちゃんは自己主張がはっきりして
くるのよ」

!!!

そっか!
伯母さんが弱音を吐いてる一番の原因。そこか!

「ねえ、自我がない弓削さんが、自分の子供のわがままを制
御出来ると思う?」

しゃらが頭を抱え込んでうなった。

「ううー」

「でしょ? 親子なのに、関係がまるっきり逆。子供のわが
ままを佐保ちゃんが丸呑みしかねない」

おそろ……しい。

「そうね。みわちゃんを取り上げたら佐保ちゃんが保たない
と思って同時看護の方針を決めたんだけど、最初に生野さん
が同時は無理って言ってた意味が……今になって分かった。
ものすごく厄介」

バッグから手帳を出してぱらぱらめくった伯母さんが、それ
で膝をぱんと叩いた。

「妹尾さんは、優秀だけどまだ若い。独身で、育児経験がな
い。それは伴野さんにしてもそう。育児を手伝ってくれる二
人に、過度な期待は出来ないの」

「……」

「そしてね、ケアの最終方針はあくまでも自立よ。子供を託
児施設に預けて働いて、自力で生活出来るところまで導かな
いと、佐保ちゃんにもみわちゃんにも将来がない」

うん。

「そこまで持っていくなら、どう考えてもボランティアでは
限界があるの。専門スタッフが……いないと」

「でも、それを補助してくれそうな福祉施設はないんですよ
ね?」

「ない。その状況は変わってない」

伯母さんは、ぎゅうっと眉を吊り上げた。

「今のケアの形は、せいぜいあと数ヶ月が限度。その後のこ
とは、もう一度作戦を立て直さないとならない。いつきくん
も御園さんも、受験が一段落したらまた相談に乗って」

「はい」

「そうですね」

「次のケアの方針がきちんと固まるまでは、田中には佐保
ちゃんと赤ちゃんが元気だってことしか伝えられない」

「……」

「今度、いつきくんが面会に行く時には、二人の写真を持っ
て行って」

「すぐじゃダメなんですか?」

「欲しいものを手に入れると、それに慣れてしまうの。今日
は佐保ちゃんへの情で目立たなかったけど、あいつの粗暴な
ところははんぱじゃない。あいつも……壊れてるんだよ」

ぞっ。

「娘と対面で話をしたいなら少しは自分をまともにしないと
だめだって、そういう気持ちをこれからずっと持ち続けても
らわないと更生しない。すぐに元に戻っちゃうよ」

伯母さんは、ぎゅうっと拳を握った。

「有期刑で済むか、無期になっちゃうか。まだ裁判は結審し
てないの。裁判官にきちんと更生の覚悟を見せられないと、
二人殺したっていう事実だけが一人歩きする。下手すると死
刑になっちゃうよ」

「そんな……」

「誰も自分のことを分かってくれない。あいつの人間不信に
は筋金が入ってる。でも世間の無理解にいくら敵意を燃やし
たって、自分への見方が変わることなんかないよ」

「はい」

「……裁判官も含めてね」

「……」

「どういう方法でもいい。きっかけがなんであってもいい。
自分を変えて見せるしかないの。それしか……ないの」

まだ……何も前進してない。
弓削さんのことも、田中さんのことも。
伯母さんは、これからのことを全部ゼロベースで見てるんだ
ろう。

前に森本先生に言われた通りだ。
福祉は最後の手段であって、最初から福祉ありきじゃない。
福祉が担えることは、うんと少ないって。

きっと。
伯母さんも、森本先生にしっかり釘を刺されたんだろうな。
そんなに甘くありませんよ……って。

「ふう……」

思わず溜息が漏れちゃった。

「それでも、いつきくんは今日田中に希望のタネを蒔けた。
それはとても大事なことよ。あいつが自分を変えようとする
きっかけが出来たなら」

伯母さんは、表情を緩めてふっと笑った。

「それ以上もそれ以下もないよ。それでぴったり」

くるっと振り返って、伯母さんがしゃらの顔を覗き込む。

「御園さんも、ほっとしたでしょ?」

「はい」

しゃらは、すっきりという感じではなかったけど、小さく
笑った。

「お兄ちゃんのことは、お兄ちゃん自身で。わたしも……も
う気持ちを切り替えることにします」

「そうよ。まず自分のことをしっかりやらなきゃね」

「はい!」

「御園さんのお家は、お店が新しくなる。新生活を楽しく始
められるように、何でも前向きに考えましょ」

「ほんと、そうですね」

しゃらの心の揺れは、しばらく続くだろうな。
田中さんへの怖れもお兄さんへの怒りも、消えて無くなるこ
とはないと思う。

それでも。
どこかで区切りを付けていかないと、足が止まっちゃう。
考えたくないことばかり考えちゃう。

僕らには、立ち止まってる暇なんかこれっぽっちもないん
だ。そういう現実を、しっかり見据えよう。




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三年生編 第84話(7) [小説]

お寺へ向かう車の中で、田中さんとのやり取りをもう一度思
い返す。
いろいろ言いたかったこと、伝えたかったことがあったけど、
そのほんの一部しか言えなかったような気がする。

今まで、誰かに何か伝えるってことを特別意識したことはな
かったけど、こういう重たいメッセージを伝えるのは……
すっごく覚悟と勇気がいるってことを思い知らされた。

「はあ……」

「どうしたの?」

伯母さんが、僕の溜息を聞きつけて助手席から振り返った。

「いや……僕は、田中さんに伝えないといけなかったことを
ちゃんと言えたのかなあと思って」

「さあ。それは分からないわ」

伯母さんは肯定も否定もしてくれなかった。
いつもなら、大丈夫よって言ってくれる伯母さんが。
それだけ……田中さんの心の闇、心の傷が深いってことなん
だろう。

「でも、これで田中には生きがいが出来た。今すぐ会えない
のはしょうがないわ。田中にも佐保ちゃんにもいろいろな制
限があるから。でも、親子として直接会えるようになるまで
は、お互いの存在が必ず支えになる……いや、違う」

伯母さんは、僕以上に深い溜息を漏らした。

「それは私の希望的観測よ。親子として会えるようになるの
が最良の結果だけど、これからどうなるのか全く分からない
の。私は、うまく行ってくれることを祈るしかない」

伯母さんの弱音は、弓削さんのリハビリがそんなに進んでな
いってことを暗に匂わせていた。

「弓削さん、少しはよくなったんですか?」

一応確かめてみる。
これから田中さんに弓削さんの状況を伝えていくなら、僕が
何も知らないってわけには行かないから。

「……。想像を絶する難治療だってことを、毎日思い知らさ
れてるわ」

やっぱりか……。

伯母さんが、くたっと首を垂れた。

「いや、佐保ちゃんは、妹尾さんのカリキュラムは順調にこ
なしてる。恩納さんのケアは献身的だし、りんちゃんも伴野
さんもすっごく上手に接してる。相変わらずぎごちないのは
私だけ」

あはは……。

「佐保ちゃんは、私たちの差し出した手をちゃんと取ってく
れるようになった。それはいいの」

「はい」

「でもね」

伯母さんの表情が、ぐんと厳しくなった。

「時間が……ないの」

思わず、しゃらと顔を見合わせた。

「あの、どういう意味ですか?」

しゃらがおずおずと尋ねる。

「今のケアスタッフの中では、りんちゃんがムードメーカー
なの。彼女だけが、あちこち抜けてる。天然なんだよね」

「あ!」

しゃらが、ぱかっと口を開けた。

「そ、そっか!」

「でしょ?」

「はい……でも、りんは進路が」

「そう。来年早々東京に行っちゃう。うちを退去するの。そ
れだけじゃないよ」

伯母さんが、いらいらしたように何度も首を横に振った。

「伴野さんの受験態勢は、ちゃんと整えてあげないといけな
い。恩納さんも、学期末は試験やレポートで忙しくなる。妹
尾さんには、最初から一年限度ってことで無理なお願いを飲
んでもらってる」

「……」

「全てが期限付きのケア。最初の滑り出しが順調だっただけ
に、先が見えないのはどうにもしんどいの」

「そうか……」

「佐保ちゃんの年齢が年齢だから、本当なら助走だけ手伝っ
て、あとは彼女の自主性に任せたい。でも、その自主性が本
当に出来上がるまでには、最低でも数年はかかる」

「うわ」

僕もしゃらも絶句してしまった。





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三年生編 第84話(6) [小説]

両拳をぐっと握りしめ、それで涙を拭った田中さんが、思い
がけないことを言った。

「佐保は。俺の実の娘だ」

ええええええーーーっ!?

僕もしゃらも伯母さんもびっくり仰天。

「俺が父親になるのを嫌がって、美夜が届けなかったんさ。
俺は片親の私生児にしたくなかったんだが、やさぐれてる俺
にはどうしようもなかった」

そうか……。
惚れ抜いたお母さんに頼まれたからって、そこまでするかと
思ったんだけど、実の子供なら話は別だよな。

「親父としてあいつにしてやれることは何もねえんだ。それ
が……情けねえけどよ。でも佐保が元気でいてくれるなら、
それだけでいい」

うるっと……きた。

「どんなやつが来たんかと思ったけどよ。佐保のことを知ら
せてくれるならありがたい。よろしく……頼む」

もう一度。
田中さんが深々と僕らに向かって頭を下げた。
僕らも、同じくらい深く頭を下げてそれに応える。

「あの……」

「うん?」

「一つだけ伺いたいことがあるんです」

「なんだ?」

「佐保さんのお母さんのお墓。どこにあるかを教えてもらえ
ますか?」

「……」

「田中さんの分も報告してきます。佐保さんもお孫さんも、
元気にしてますよって」

田中さんは、もう流れている涙を拭かなかった。
床に、ぽたぽたと涙の雫が落ちていく。

「刈干(かりぼし)ってとこに、円乗寺ってえ小さい寺があ
る。そこに美夜の骨ぇ預けてある。墓はねえんだ」

そっか……。

「坊主に俺の名を出せば分かるはずだ。俺の分も……拝んで
やってくれ」

「分かりました!」

「頼む」

田中さんが、もう一度深々と頭を下げた。

「なあ」

「はい?」

「なんで、あんたら俺によくしてくれるんだ?」

僕は思わず苦笑いした。

「僕も彼女も、二年くらい前には死ぬことまで考えてたんで
すよ」

「は?」

「すさまじいイジメにあって」

「……」

「心が傷付いたのは佐保さんだけじゃない。僕らもそうなん
です」

「そうか……」

「僕らが心を立て直せたのは、親身に支えてくれる人たちと
出会えたから。その恩は……どこかで返したいんです」

「ああ」

「だから。田中さんも則弘さんを恨まないでくださいね。則
弘さんは、覚えのない人殺しの罪を着せられて、僕らくらい
の歳の時に失踪してる。どこにも救いがなくて、今まで逃げ
通しです」

「……」

「則弘さんの心も、ずーっと壊れたままなんですよ。どっか
で治さないと死んでしまいます」

横で、ぶるぶるっとしゃらが震え上がった。
しゃらとお兄さん。出会えた幸運の差でこんなに結果が大き
く違ってしまったってことが、すごく怖くなったんだろう。

幸運に出会えるか、不運につかまるか。
僕らはそれを選べない。
選べない以上、幸運を活かし、不運は捨てるしかない。
それしか……ないんだ。

田中さんは、自分の娘に無節操に手を出した則弘さんを絶対
に許せないだろう。
でも則弘さんがいなければ、そこで弓削さんの人生は終わり
だったと思う。

ものすごく情けない形だったけど、則弘さんが僕らに倒れか
かってきたから弓削さんと赤ちゃんに生き延びるチャンスが
出来た。
そして娘さんを則弘さんに押し付けた田中さんも、そうなる
ことをどこかで期待していたはずだ。

僕は……田中さんの次の言葉をじっと待った

「分かった」

それが田中さんの本心なのかどうかは、僕には分からない。
でも、納得してくれたと……思いたい。

ふうっと頬を膨らませた田中さんは、寂しそうな表情になっ
てすっと横を向いた。

「俺はもう無期でも死刑でも構わねえって思ってたけどよ。
一度でいい。娑婆で……佐保に会いてえなあ」

それは。孤独にあえいでいた田中さんの、心の底からの叫び
だったんだろう。

「また……来ます」

「ああ、頼む」

「今日はこれで失礼します」




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