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三年生編 第110話(5) [小説]

すたすたとサンドバッグの前に歩いていった矢野さんが、
クラウチングスタイルで構えるやいなや、ずどんとものす
ごい音を立ててフックをかました。
サンドバッグがパンチから逃げようと反対側に吹っ飛ぶ間
もなく、次々に左右のフックを浴びせる。

ジム内の練習生の人たちが、すげえすげえと言いながら、
足を止めて矢野さんの連打をじっと見ている。

「ぶふう!」

リングロープにかけてあったタオルで顔を拭いた矢野さん
は、まだぎしぎしと音を立てて揺れているサンドバッグを
じっと見つめていた。

「あいつは……殴られるのが仕事だ。それしかできない」

「ええ」

「でも、ボクサーってのは違うんだよ。ボクシングはス
ポーツだ。いかに相手よりも多くの有効打を浴びせるかを
競う競技であり、ノックアウトはその一つの手段に過ぎな
い」

「あ、そうか……」

「だろ? どういう形の試合になったにせよ、それはあく
までも試合であって、試合終了時に勝者と敗者がいる。そ
れだけのことさ」

「……」

「それだけのことを祭りにするには、どうしても欲が要る
んだよ」

ごつい拳を開いた矢野さんが、それを一つ一つ折りながら、
祈るように唱える。

「オンナにもてる。うまいメシを食う。誰でも知ってる有
名人になる。でかい家に住む。かっこいい車に乗る。金持
ちになる。欲の形はなんでもいいんだ。一つ勝てば欲を満
たせる……そういう実感がないと祭りを楽しめねえ。だけ
どな」

「はい」

「始末に負えねえ欲もあるんだよ」

「始末に負えない……ですか?」

「そう。目に見えない欲。形にならない欲ってのが一番厄
介なんだよ。それがなにか、どうやって満たしたらいいか
わからない。だからもやもやするのさ。工藤さんのもそう
だよ」

「あ……」

なんか、すこんとはまった気がする。
僕の納得顔を見て、矢野さんがにやっと笑った。

「それがあるからボクサーってのは厄介なんだ。即物的な
欲を通り越すと、みんなあっち側に行っちまう」

「あっち側、かあ」

「そう。世界一になるってのはまだいいさ。具体的だから
な。でも、一番強いやつとがちんこしたいっていう欲は、
本当に難しいんだよ。その欲に取り憑かれると、身を持ち
崩す。祭りにならなくなる」

目を細めた矢野さんが、ぐるっと首を回した。

「挫折とトシで物理的に限界が来た俺は、幸運だったと思
うぜ。最後に最高の祭りを楽しめたからな」

そうか。
浦川さんとの試合がボクサーとしての最後の祭り。
今、体を絞って試合できるコンディションを作っているの
は、あくまでも指導者としての基礎作りなんだ。
指導者という次の道に向かって歩きつつある矢野さんの次
の祭りは、もう始まっているんだろう。

僕もそうなのかもな。
高校生っていう祭りは、もうそろそろ最終盤に来ている。
準備も含めて祭りを楽しんできたけど、その祭りは僕がど
う感じようともう終わりなんだ。

今の祭りを楽しみきって、次の祭りの準備に勤しむ。
考えてみれば、当たり前のことだったかもしれない。

とか考えていたら、矢野さんのごつい声が響いた。

「ようし。休憩終了だ。ナガタニ、上がれ。こいつとス
パーしろ。他の連中もアップしとけ」

「え?」

「半端にエネルギーを残すからもやもやすんだよ。きっち
り完全燃焼してけ」

「ひええええっ!」


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コメント 2

mitu

なんか
カッコイイですね矢野さん( *´艸`)
by mitu (2022-12-18 05:20) 

水円 岳

>mituさん

コメントありがとうございます。(^^)

一時はヤクザの用心棒に身を落としていたんですが、
本当にボクシングが好きで、自分自身に妥協しない
ストイックな人です。

いっきの周辺にはいないタイプなので、いっきが
強い影響を受けていますね。(^^)

by 水円 岳 (2022-12-18 23:31) 

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