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【SS】 春の霜 (指月喜代子) [SS]


「おばあちゃん。今朝はうんと冷え込んだから、もうちょっ
と暖かくなるまで家にいた方がいいよ?」

ひ孫を抱いた孫の智美が、外に出ていたあたしを呼び止めた。

「はっはっは。そうだね。すぐ戻るよ」

八十をいくつか過ぎて、もう若い頃のようには動けない。
それでも、あたしの幸福はある程度年を重ねてからじわじわ
と訪れた。

今更だけど、あたしはそれが本当に良かったと……思ってい
る。

あたしがまだ青臭い娘だった時には、この辺りは一面田畑ば
かり。春の気配が漂う弥生に降りる霜は大の苦手だった。
ぬかるみがひどくなるというだけじゃない。
それは……訪れかけた幸せまでどろどろに汚してしまう。

自分には一生幸せなんかやってこないんじゃないかって、そ
んな気にさせられたんだよ。

今は田畑が家並みで置き換わり、霜は舗装道路の上をうっす
ら覆うだけになった。
霜がどの季節に降りたって、大した違いはない。

それでも、春の霜はいやだね。
あの時を……思い出すから。



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「やっぱり……俺とは一緒になってくんねえのか」

それは……本当に寒い夜だった。
同じ布団に入っていても、体の熱がどんどん奪われて芯から
冷えていく……そんな、辛くて長い夜だった。

「ごめんね」

「……仕方ねえさ。俺はこういう稼業だからな。キヨはまっ
とうなやつと所帯持った方がいいさ」

それは嫌味でも、諦めでもなく。
まるで運命がそうさせているような、切ない言い方だった。

あたしは、公さんに謝ることしか出来なかった。
顔を見たら、決心が揺らぐ。
あたしは泣きながら背中を向けた。

「ごめん……ね、公さん」

「俺も。そろそろ年貢を納めねえとな」

花街をシメていた高瀬組の若旦那が、出がらしみたいな娼婦
のあたしを好いてくれて。
たいした取り柄のないあたしには、まるで夢のようだった。

だけど。
あたしには、その夢の先が見えなかった。
夢を踏み外して落ちたところが、どこのどんな場所になるの
かまるっきり分からなかった。

あたしは怖かったんだ。
黙っていればすぐ融けて消えるだけの春の霜。
そのほんのわずかな間の冷たさが、あたしの足をすくませた。

公さんとの間で言葉が絶えて。
凍てつく戸外で誰かが霜を踏み鳴らすさくさくという音だけ
が、いつまでもいつまでもあたしを切りつけていた。


smo2.jpg



「因果なものだよ」

融けて跡形もなくなった歩道の霜。
あたしは、黒く濡れそぼる道を見通す。

あたしを請け出して所帯を持ってくれた順ちゃんは、あたし
を置いてもう逝っちまった。
本当に悲しいけど。でも息子も孫たちも、あたしの血を引い
たとは思えないくらいみんな優しいし、出来がいい。

それはあたしが望んでいた以上の幸せで、逝っちまった順
ちゃんには本当に感謝しかない。

あたしと別れた公さんは、気丈な姐さんを奥さんに迎えて、
立派に組を盛り立てた。

でも金も人望もあった公さんが、時代の流れに取り残された
のは皮肉なことだよ。
あたしとは逆で、若い頃いっぱい持っていた幸せを少しずつ
食いつぶしているように感じちまう。

「おばあちゃん?」

「ああ、ごめんね。もう戻るよ」

「霜は融けちゃったみたい?」

「はっはっは! そらそうだよ。もう三月だからね」

サンダル履きであたしの横に出てきた孫が、春らしくなって
きた青空を眩しそうに見上げた。

「これから一気に春花が増えるなー。お店が忙しくなるわ」

「花屋は賑やかなのが一番さ。ありがたいことじゃないか」

「うん! 生花の仕入れ計画立てとかなきゃ」

「さあて。お茶にするかね」

「瞳におやつ用意しなきゃ」

「はっはっは! まだひなあられがあるだろ」

「わ! そうだった。ラッキー!」

「はっはっはっはっは!」

あたしは。
もう一度、霜の融けた路面を振り返った。

春の霜はすぐに融ける。
でも、それは融けてからじゃないと分からない。

あの時、公さんの手を取っていたら。
ほんの少しの霜を我慢することが出来たら。
あたしは、今どうなっていただろう?

日が当たった路面から、ゆらゆらと湯気が上がり始めた。
その揺れの中に。

あたしは自分の幸福と後悔を両方見る。

「やっぱり……春の霜はいやだね」






(補足)
指月喜代子は、花屋さんフルール・ド・ジュイユの住居部分
に住んでいるおばあさん。花屋を切り盛りするお孫さんの田
代智美とそのご主人、そしてひ孫の瞳ちゃんが一緒に住んで
います。

花屋は、元は仏具屋さんでした。指月さんのご主人が亡く
なったあとで、お孫さんが脱サラして始めた花屋に改装され
ています。
いっきは、智美が経営に失敗して開店休業状態になってし
まった花屋さんの臨時オーナーとしてその店を盛り上げ、お
ばあちゃんや智美ちゃんにとても感謝されています。

そのあたりのことは、一年生編の第59話から第64話を読
んでいただければ。

おばあちゃんは、朗らかで人当たりの柔らかい人です。
でも、商売のことになると鬼になります。
孫の智美のやり方には最初全く口を挟まず、わざと失敗させ
て強いお
灸を据えたりしてますね。

おばあちゃんが娼婦だった頃の上客が、糸井先生の祖父高瀬

公作。もしおばあちゃんが、高瀬さんの手を取っていたら。
全く違った物語になっていたことでしょう。(^^)

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JUNKO

霜の朝はいやでも霜の降りた草花は美しいです。
by JUNKO (2017-03-22 11:00) 

水円 岳

>JUNKOさん

コメントありがとうございます。(^^)

霜で飾られた草花を撮るのは大好きなんですが、あまり近づき
過ぎると……。

……溶けます。(^^;;

by 水円 岳 (2017-03-24 00:06) 

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